どうぞ、思いのままに
エアコンを適度に効かせた部屋にいるのに、腹の底に溜まった何かが燻り続けるせいで体温が一向に下がらない。
その苛立ちを一度鎮めようとして征士はシャワーを浴びたのだが、やはり。
「……………」
乱暴に髪を拭ってソファにどっかりと座る。
当麻が近所で見つけてきた1人掛けのソファの座面は深い緑をしていた。
一目見たときからこれをいたく気に入って、必死に探し続けていたという当人は暢気にアイスを齧っている。
「暑いならお前も食べりゃいいのに、アイス」
そう言って、やっぱりどこか暢気な当麻は、自分の食べさしを征士の鼻先に近づけた。
「……要らん」
ひらひらと目の前で揺れる、水色の冷えた塊を邪険に払った征士の眉間には深い皺が刻まれている。
それに気付いている当麻は一瞬だけ目を見開いて、その後すぐに小さく溜息を吐くと征士の頬に手を伸ばした。
「征士、」
その手も征士は払う。
明らかに、不機嫌だ。
今度こそ当麻の溜息ははっきりと大きく吐かれた。
「なぁ、せいじ」
「……………風呂上りで暑いんだ。悪いがしばらく寄るな」
低い声でそう言うと、征士は目を閉じた。
その姿は自分と向き合うためにというよりも、拒絶の意味合いの方が強く見えた。
「…………おい」
「……………」
「……おい、コラ。返事しろ」
「……………」
「…征士、コラ。無視してんじゃねえぞ」
「随分と」
つられるように苛立った当麻が声をかけると、征士が口を開く。
続けて目も開いた。
だがその目にはいつもの優しさはなく、あるのはどす黒い何かを含んだ紫だけだった。
「…浮かれているんだな」
静かに言う。
アイスを持ったままの当麻が瞬きをした。
「浮かれてる?俺が?」
「そんなに………楽しかったのか」
どこか忌々しげに征士が言うと、当麻の表情がさっと変わる。
呆れ。怒り。そして、僅かだけに見える寂しさ。
その感情全てを吐き出すことを堪え、代わりに当麻は手に持っていたアイスを一気に食べた。
「………何だよ、…………つまんねぇヤツ」
俺、もう寝る。
平坦な声で告げた当麻はそのままリビングを後にした。
何を今更。
ソファに座ったままの征士は張り詰めていた緊張を解くように溜息を吐いた。
首にかけていたままのタオルは水を含んでいて重い。
それをベランダに干しに出る気力もなく、征士は項垂れた。
つまんねぇヤツ。当麻はそう言った。
確かにそうかも知れない。
いや、昔からそうだ。つまらない男だ。何を今更。
下らない事で嫉妬して、下らない事で苛立って、そして下らない事にそれを自分以外の者に八つ当たりして。
1人になった途端、急に後悔が押し寄せてきて征士は自分自身むけて、また溜息を吐いた。
今日、当麻は遼と会っていた。
飛行機の乗り継ぎの都合で日本に数時間だけ滞在するから、と遼から連絡があったのが昨日のことだった。
もう滅多と日本に居ない彼に会えるのはそれだけで楽しい。
それは仲間の誰もが思う事だ。
ただ平日の昼前に会うことが出来るのは、会社員の征士や伸ではなく、人気料理店の料理長を務める秀でもなく、
自宅でフリーランスで仕事を請け負っている当麻だけだった。
そんな事は考えなくたって解ることだった。
だが、それでも征士の心には小さな波が起こった。
乗り継ぎを態々日本でする必要はないのではないか。
平日の昼前ではなく、夜にでも時間をずらす事は出来たのではないか。
当麻と2人きりで会う必要なんてなかったのではないか。
聞く人によっては育児放棄とも受け取られそうな幼少期を当麻は過ごしていた。
それは遼も同じだった。
両親は常に傍になく、他人からどこか距離を置かれてきた過去。
人に対して不器用で、だけど誰よりも優しい心。
似た環境で育ってきた2人はお互いのことが言葉にせずとも解るのか、他の仲間とは違う、独特の距離を持っていた。
嘗て仲間全てを奪われ、2人きりで残されたこともそこにあるのかも知れない。
兎に角、2人は、2人にしかない空気を時々持っていた。
それが、征士には寂しく思う事があった。
遼が当麻に対して、そして当麻が遼に対して、そういった感情を持っている様子は無い。
寧ろ当麻の気持ちは自分に向いてくれていることを、征士だって解っている。
けれど、それでも時々意味もなく嫉妬してしまう自分が居ることも、征士は解っていた。
つまんねぇヤツ。
その通りだと征士は思う。
そう言われて、では遼ならつまらなくないのか、などと思ってしまうような人間なのだと。
実際にその言葉は堪えられたが、そんな自分が彼にとってつまらなくない筈がない。
過ぎる束縛って、ああいうタイプの人って嫌うわよ。
ふと、いつだったか妹に言われた言葉が耳に蘇った。
それも、その通りだろう。
当麻は元々自由を好む性質だ。それも、常人よりも遥かに軽いフットワークで。
当麻の気持ちも、性質も、性格も全て解っているはずなのに、それでもエゴとも思える感情を抱いてしまうのは、
それはやはり。
「………自信の問題…でしかないな…」
男気があるだとか、公明正大な人間だとか。
完全無欠だとか。
そんな風に評価され、それに応えるまでもなく立派であろうと心がけている征士だが、それでも不安になることだってある。
殊、当麻とのことに関してはそうだ。
ともすれば男としての尊厳を踏み躙るような関係を強いているのだから、誰よりも丁寧に、何よりも大切にしていたいのに、
それでも自分が彼を傷つけるような事をしているのが情けない。
もう一度、溜息を吐く。
身体の熱は取れそうにはないが、認めるべき非は早々に認めておきたい。
征士はゆっくりと立ち上がると、首にかけていたタオルを手に取った。
「………当麻」
寝室に入ると、宣言どおりに当麻はベッドに横たわっていた。
名を呼んでみても返事はない。
本当に寝てしまったのか。
そう思って征士は足音を忍ばせてベッドに近寄り、そっと恋人の顔を覗き込んだ。
「………………」
当麻は目を開けていた。
背を丸め、枕を抱えて、そこでただじっとしていた。
その姿に征士は言葉を失う。
寂しそうに見えたからではない。
深く傷つけた事が心苦しかったからではない。
当麻が、抱えている枕が。
「………………それは、私の枕だな」
明らかに征士の枕だった事を指摘すると、当麻はぎゅうっと更に強く枕にしがみ付いた。
「俺は今、”征士”と寝てんの」
枕に押し付けられて、「邪魔するな」という言葉がくぐもった状態で返ってくる。
自分の匂いの染み付いたものに抱きつく姿は、征士の胸を締め付けた。
クールに見えて当麻は実はとても寂しがり屋だ。
スキンシップだって上手くない。
本音を人に聞かせるだなんてもっての外だ。
その彼がじゃれついてきたのを、下らない嫉妬で邪険にしたのは自分だ。
征士にはその自覚があったので、当麻をこれ以上傷つけないように気をつけながら、ゆっくりとベッドに乗り上げた。
「当麻、その………さっきはすまない…」
そっと髪に触れると、当麻の身体が強張った。
「まだお前の体、熱いぞ。暫く寄るなって言ったの、誰だよ」
「だから、それはすまない、と…」
あれは明らかに八つ当たりだった。
つまらない男の、下らない嫉妬だった。
だが、だから征士は謝る以上の言葉が出てこない。
「…………俺のさぁ………………気持ちは、どうなるんだよ」
謝る以外は何も言えないでいると、姿勢はそのまま、枕に顔を埋めたまま当麻が言う。
やはり、征士は何も言えなかった。
「俺には自分を信じろとか言うくせにさ、…俺を信じないとか………お前、それは変だろ」
丸くなったままボソボソと続く言葉に、征士は無言のまま頷いていた。
征士の不機嫌の理由をきちんと理解していたらしい当麻の言う事は、正しい。
当麻には自分の想いを信じろと言うくせに、当麻の気持ちを置き去りにして勝手に嫉妬したのは自分だ。
しかも勝手に怒って八つ当たりまでしている。
ああ、と征士は息を漏らした。
「………そりゃお前がさ、……その、…まぁ何だ、ヤキモチ妬きだなって思う事は何回かあったけど、
……それでも幾らなんでも酷い話だろ」
俺のこと、信じてないのかよ。
小さな声は、弱々しいからこそ心底の言葉なのだと思い知る。
信じていないのか。そう問われて征士は改めて考えた。
当麻の事は信じている。
その優しさも、寂しがりなところも、限った人間にしか心を開かないところも、そしてその一番が自分であるという事も。
だからこそ自分の想いが本気であることを貫き示すためにも、互いの身内に2人の関係を打ち明けた。
大事にしたいから。そう思っていた。
その思いが、いつしか勝手に歩きだしていたのだと征士は気付いた。
当麻を大事にしたい。
その思いがいつしか彼に対して妙な距離を作ってしまっていたのではないか、と。
「………………当麻」
「……………」
「お前の事は信じているんだ」
「……じゃあ何だ、自信がないのか」
お前自身に。
口にはしない言葉の続きは征士にもわかった。
そう、自信がなかった。
愛している。大事にしたい。傷付けたくはない。
その想いが距離を作り、その距離に焦り、どうしようもなくなって。
だから。
「……当麻、」
「………………………なんだよ」
「……私の、…思うように愛していいだろうか」
遠慮も距離も捨てて。
認められた関係に甘んじるでもなくて。
「好きなように大事にしていいだろうか」
自分の思うままに。
真剣に告げると、枕に顔を埋め続けていた当麻が僅かに動き、ゆっくりと振り返る。
口端は上がっていた。
「お前の気持ちなんだから、お前の好きにしろよ」
「…ああ」
「言っとくけど、俺はずっと俺の好きなように、お前のこと、好きでいたからな」
「…そうだな」
漸く征士も笑えるようになると、当麻が体を起こして征士の髪をぐしゃぐしゃと混ぜるように撫でた。
「ったく、お前って真面目すぎるのが面白いけど、こういう時は面倒だな」
「…以後、善処はしていく」
「いいよ、別に。結局面白いから。……………………で?」
「…で?とは?」
突然尋ねられ、きょとんとした征士の目の前で当麻は首を傾げてみせる。
単に質問をしているという仕草ではなく、何か思惑のある表情だ。
「だから、”で、お前は早速どう好きにすんの?”って聞いてんの」
意味が解った征士は、悪戯っぽく笑う頬に手を伸ばした。
武骨なその手を、当麻の神経質そうな手が掴んでやんわりと拒む。
だが表情に否は見えない。
「当麻?」
「ヤだよ、お前、熱いんだろ?」
根に持っていたのか。
心の中でだけ溜息を吐いた征士は、天を仰いで降参の意思を示す。
「当麻、私が悪かったから」
「じゃ、いいよ。で?どうしたい?」
掴んだままの征士の手を自ら頬に当てて当麻が聞くと、征士はさらりとした感触を楽しみながら笑った。
「くっついて寝たい」
「くっつくだけでいいのか?」
「今夜はそうしたい」
今夜”は”とそこを強調すると当麻が声を立てて笑う。
「お前って助平だな」
そんな不名誉な言葉にも征士は頷いた。
今夜ばかりは当麻の言う事が正しいのだ。
*****
幸せすぎて大事にしすぎて、それで迷子になった征士。
でももう大丈夫だと思います。
時期的には、お互いの家に挨拶も済んで落ち着いてきた頃くらい。