振り返れない先に


それは本当に一瞬の事だった。

過去の書類を捜すために倉庫に入った女性社員が、誰か、と言って戻ってきた。
何かあったかと総務課のチーフが聞くと、書類を綴じたであろうファイルが入った段ボールは見つかったのだが、
それが高所にあって手が届かないのだと言う。
なるほど、確かにその書類を探しにいった彼女の身長は平均以下だ。
彼女では無理。誰もがそう思った。
チーフの判断もそうだった。
そして彼女の判断は早かった。


「伊達君、取ってあげて」


平均以上の身長に加えて同年代より遥かに筋力のある征士に、彼女はそう告げた。
それに対して特に異論のない征士は自分のしていた仕事を一旦止め、素直に席を立つと女性社員と共に倉庫へと向かった。

あれです、と示された箱は天井まで届くような棚の上という高所にあった。
確かにどう見たって彼女には無理だ。
疑っていたわけではないが改めて納得した征士は近くにあった脚立をかけ、無駄のない動きで登っていく。
ある程度上にくると箱にはすぐ手が届いた。
軽く引いてみる。重い。
改めて征士は彼女では無理だったろうと思い、さっきよりも力を込めて手前に引き寄せる。
肩の位置まで引くと、そのまま肩と腕に乗せるようにする。
そこでふと考えた。

この段ボール箱を抱えたまま、降りれなくはない。
だが不安定ではある。
しかし下で脚立を押さえている女性社員に、さあどうぞ、と渡して大丈夫なものだろうか。
いや、無理だろう。征士はすぐにそう結論付ける。
平均以下の身長の彼女の腕は、最近の若い女性にありがちな”細すぎる”腕だ。
筋力も乏しそうだ。

持って降りるか。

そう考えると、下から遠慮がちな声が聞こえた。


「あの、…わ、私、受け取ります」


肩と腕に箱を乗せたまま征士は下を見た。
手持ち無沙汰だからとか、取敢えず言ってみただけだとか、そういう表情ではない彼女がいた。
不安定な立ち居地にいる征士を気遣い、一生懸命、大真面目に申し出てくれているのがすぐに解る。

どうしようか。征士は悩んだ。
先にも考えたとおり、彼女はどう見たって細腕だ。
しかし本来ならばこの書類は彼女が必要なもので、そして彼女が取りに来た仕事だ。
それを全うしようと彼女はしている。
その申し出を無碍に断るか?
だが意思と実際に予想される結果は大きくかけ離れている。
意志を貫くことが必ずしも正解ではないのだ。
彼女の申し出は正直征士にも有り難かった。箱は、重い。
例えばこれを持ったのが当麻なら、「うわー…ムリムリ、せいじー」と自分に助けを求めたに違いないだろう重さだ。
(一応言うならば、当麻だって男なので筋力はある。今だってそれなりに。ただ、”合理的にどうする事がベストか”という結果、恋人を呼ぶのだ)

最初の姿勢のまま暫し考える征士だが、その間にも肩や腕に箱は重く圧し掛かっている。


「いや、だいじょ、」

「大丈夫です、骨なんて折りません。ちょっと乱暴になりますが、伊達さんから受け取ってそのままこの台車に落としますから」


やはり自分が持って降りた方がいいと判断し、彼女の申し出を断ろうとした征士の言葉尻に被せて、彼女は言った。
言われて目をやれば、いつの間にやら台車が彼女の近くに寄せられている。
箱がパンパンに膨れている時点である程度の重さを見た彼女が用意していたのだろう。

これなら大丈夫か。征士は考えを変えた。
だって、重いのだ、箱が。


「…では、」


そう言って右肩にあった箱を胸の前を通して彼女に渡そうと腰を捻った時だ。
ぐらり、とバランスを崩した。

マズイ。

そう感じた征士は、せめて彼女の頭に箱を落とさないよう体を捻り、目的地の台車とは違う床に箱を落とした。
同時にすぐに上体を起こし、自身が脚立から落ちないよう棚に向けて方向転換する。

その、本当に一瞬のことだった。


「………………………っっ…くぅ…っ!!!」





「じゃあ征士、…解ってるな?」


半ば疲れを見せている征士に向かって、当麻はどこか楽しそうな声を出した。
促されて征士がダイニングチェアーからのろのろと立ち上がる。
テーブルに手を付き、慎重に、慎重に。
その間に当麻は箱を空けて準備を始める。


「よっし、んじゃあ。ズボン脱いで、尻、出して」




あれは倉庫で箱を渡そうとした、本当に一瞬の事だった。
征士は脚立からは落ちなかったし、箱が頭に落ちることもなく彼女も無傷だ。
段ボール箱の隅が損傷したようだが中身には何の影響もない。
だが征士は棚にしがみ付いたまま、大量の汗の粒を額に浮かべて苦悶の表情を浮かべていた。

大臀筋の捻挫。
征士の現状だ。

脚立から落ちまいと咄嗟に腰を捻った征士は確かに落ちなかったが、その代わりに腰と腿を繋ぐ筋肉、大臀筋を負傷した。
少し動いただけでも腰から膝にかけて激痛が走る。
短い悲鳴を上げたきりピクリとも動かない征士に焦った女性社員が助けを呼びに行き、他の男性社員がやってきてどうにか征士を脚立から降ろした。
だがその時点では見た目で現状が解らない。


「救急車、呼んでやってくれ」


誰かが言った。
普段とてもクールで表情の乏しい征士が苦悶の表情を浮かべていることから、ただ事ではないと思ったのだろう。
だが長年武道を嗜んできた征士には何となくだが、筋肉を捻ったのだろうというのは解っていた。
手や足を捻った時と似た痛みが腰辺りにある。
恐らく捻挫だ。だから救急車などという大げさな事はしてくれなくていいのだ。

征士はそれを素直に伝えた。
大丈夫です、と。
だが体を少しでも動かせば激痛が走り、とても仕事になりそうにない。
早退するにも病院に向かうにも、どう考えたって1人では無理だ。
同僚はそう言うのだが、征士だって馬鹿ではない。
今この状態で車の運転など到底できないことは解っている。


「大丈夫だ、人を呼ぶ」

「あぁ、伊達君の恋人?」


すかさず総務部のチーフである女性が言った。
その声がどこか弾んでいるのは、噂ばかりで姿の見えない”愛しい人”を愈々目にできることへの期待が滲んでいる気が、征士にはした。


「いえ、………………在宅で仕事をしている”友人”がいますので、彼に頼みます」


しかしそう簡単に当麻を人目に晒すわけにはいかない。
僅かにだけ置かれた間に何かを察知したのか、同僚が曖昧な顔をしていたが征士だってそれに構ってはいられない。
そう決めるとすぐに携帯電話を取り出し、”友人”の当麻に助けを求めた。



帰り道に寄った病院での診断結果は、やはり捻挫だった。それも、大臀筋の。
病院で尻に湿布を貼られ、いつもと違ってそろそろと歩く征士の横で当麻はニッコニコの笑顔だった。
いや、会社に現れたときから当麻は笑顔だった。

よー征士、ひっさしぶりに人呼んだと思ったら、まー人使いの粗いこと。あ、征士の会社の方ですか?どうも、いつも征士がお世話になっています。

ニッコニコと人のいい笑みを浮かべた当麻は、簡単ながらも挨拶を済ませ、征士に肩を貸してくれた。
人前で堂々と肩に手を回す事に慣れていない征士は少し戸惑ったが、今は”友人同士”なのだ。照れる方がおかしいと平静を装った。
視界の端で同僚がやはり複雑な、けれど嫌悪ではなく、どこかニタニタとした笑みを浮かべていた。
それもあまり気に入らなかったが、何故か付き添いと称して降りてきていた数名の女性社員たちが、
「伊達さんのお友達って、フリーなのかな」と小さく囁き合っている事の方がもっと気に入らなかった。

クソ。征士は珍しく汚い言葉を心の中で使った。


兎に角、笑顔の当麻は家に帰っても笑顔だった。

何をするにも痛みが伴うため、征士は大人しくダイニングチェアーに座ることにした。
ソファーは膝よりも低い位置に腰が沈むため、なるべくなら避けるように言われてしまったからだ。
そのままの状態で暫くは本や新聞を読んだり、こういう時くらいしか機会もないからとワイドショーを観てみたりもした。
仕事は数日の間は休むようを言われている。最初は困惑したが、確かにロクに動けないし、それなら当麻との休日を楽しもうと
気持ちはとっくに切り替えていた 。

それぞれにある程度寛いでいた時だ。
ソファに座っていた当麻が「そう言えば」と切り出した。


「…何だ?」

「お前、湿布貼ってるんだよな、尻に」

「ああ」


病院で貼ってもらった湿布は、貼られたときと違って既に温い。
貼り替え用の湿布を貰っている。そろそろ貼り替えなければならないだろう。


「尻だよな。どっちだっけ?」

「左だ」


腰を捻る事は辛いが、完全に動かないわけではない。
貼り替えるのに多少手間取るだろうが、何度か繰り返せばすぐに慣れるだろう。
そう思いながら征士は頭の中でシュミレーションをする。
鏡の前に立ち、身体の前から右手を通して貼ろうか、それとも背中側から回して貼ろうか。
どちらの方がいいか迷っていると、いつの間にかテーブルを挟んだ向かいの席に移動してきた当麻が身を乗り出している。


「何だ?」

「湿布、貼ってやるよ」

「………何だと…?」


湿布の貼り替え。
言われて征士は固まった。

いや、やってもらった方が絶対に楽だというのは解る。
だが何というか、尻を丸出しにさせられるというのが……恥ずかしい。
”そういう事”をする時には尻丸出しどころか全裸になるが、恥ずかしい。
だって自分は尻だけ出して、きっちり服を着たままの当麻に背を向けて立つのだ。
恥ずかしい。恥ずかしいったら、恥ずかしい。


「い、いや、い、いい…!自分でやる、やれる…!」

「無理すんなよ。早く治したいんだろ?任せとけって」

「…………………………い、いや…」


当麻の事は信頼している。
ただ、何だか嫌な予感がするのだ。だって当麻ときたら終始、ニコニコとしているのだ。


「なに。何で。……あ、まさかお前、尻出すの、恥ずかしいとか?」

「…!」


はい、そうです。なのだが、征士は何故か素直に認めたくなかった。だが当麻にはバレたらしい。ニッコニコとしている。


「今更だってのに、しょうがないヤツだなぁ……だったら俺も尻出そうか?これならお互い様だろ?」


それとも全裸でやる?と聞かれて、確かにそれなら状況は同じだな…と一瞬考えた征士だが、すぐに考え直す。
真昼間ではないが夜でもない時間帯に男2人が全裸でする事が、湿布の貼り替えってどうだ。
(世間的には男2人が全裸という状況もどうだと思われるかもしれないが、そこは恋人同士の全裸なので征士は無視した)


「い、いや、自分で……」


そう言った征士は、当麻に取られる前にと湿布に手を伸ばす。
取ってしまえば勝ちだ。

と、思ったのだが。


「……っつ…ぅ…!!!」


痛い。腰が、尻が、そして腿の横までも。






征士は自らチャックを下ろし、ズボンを下げた。
すぐ後で下着も下げる。腰を曲げることが出来ないので、こちらは腿の辺りでまでしか下ろせなかった。
そしてダイニングテーブルに手を付くと、少し尻を突き出すようにする。
勿論、その方向には当麻が待機している。


「よーしよし。…あ、征士、パンツ、もう少し下げるぞ。湿布貼るのに邪魔だから」


それなら仕方がないな。と自分に言い聞かせた征士だったのだが。


「と、当麻!」

「なに」

「そんなに下げる必要はないだろう…!」


振り返れないので前を向いたまま訴える。
薄い紫色のボクサーブリーフは腿より下がって膝を越え、足元まで一気に落ちたズボンを追うかのように征士の足首まで下ろされていた。


「えー、いいじゃん。ちょっとくらい」

「ちょっとの距離ではない…!」


必死に上げてくれと脚を僅かに動かす。連動して尻の筋肉が動くのが自分でも解った。
するとそれを見た当麻が声を上げずに笑っている。
どうして征士がそれを知ったのかというと、尻に吐息が当たったからだ。

吐息。
それに征士の意識は下着から離れた。


「とうま…!」

「今度は何」

「お、お前、そんな至近距離で尻を見なくたっていいだろ……っう!!」


大きな声を出すと、腰に響く。
痛みは一瞬だったがその余韻が残り、征士は表情を歪めた。
テーブルに乗せた手の甲に血管が浮かび上がるほど苦しんでいるのに、当麻はまた笑った。


「だってこんな至近距離でマジマジ見ることって、滅多にないし。征士の尻」


そう言って当麻の肉の薄い手が、きゅっと引き締まった征士の尻に触れる。
下から上に、からかう声とは違ってとても優しく撫で上げられた。


「当麻…っ」

「お前って尻まで男前だって思ってたけどさぁ、」


今度は手が、上から下に向かう。


「案外、可愛いんだな」


下から尻を持ち上げるようにされると、そこにふっくらと瑞々しい感触が与えられた。
唇を寄せられたというのは、征士にもすぐに解った。


「とうま、や、やめないか…っ汚いだろう…!」


尻だぞ!と声を殺しながらも必死に訴える。今度は尻を抓られた。


「汚いからやめろだって?」

「い、…っつ…!こら、当麻!」


パチンと今度は平手打ち。
勿論、手加減はされているし叩かれたのは右側だ。


「いっつも俺の尻を撫で回したりキスしたり、挙句嘗め回してるヤツが何言ってんだよ」

「………………」


………それを言われると、征士は反論が出来ない。
昨日はしてないが、一昨日の夜、それこそ正しく四つん這いにした当麻の尻を撫で回し、口付け、挙句嘗め回したところだ。
加えて言うなら指だって入れたし、それ以外のモノも挿れた。
ただ弁解するならば当麻だって楽しんでいたはずだ。恥ずかしいとは言っていたけれど…


「そ、……その、だが、……その…」

「たまには俺にもお前の尻を見せてくれたって、罰なんか当たらないだろうが」


まるで生まれたての子を慈しむような優しさで征士の尻を撫でながら、当麻が言う。
それは確かにそうなのだけれど。
解ってはいるが、と征士はテーブルに載せた手を固く握り締めた。


「他の男の尻だったら間違いなく汚いけど、征士の尻なんだから汚くなんかあるか」

「…っひ…!」


当麻が言い切ると同時に、征士の尻にヒヤリとした感触が貼りついた。
新しい湿布だ。
昔からの慣れで大体の予測は付いていても、最初のこの感触だけは何度経験しても声を殺し損ねてしまう。
それが不意打ちに近い状態で齎されたのだ。
手に込められていた力が、つい緩んでしまった。


「……………あ」


征士の背に、痛みとは別の冷や汗が流れた。
短い声を上げた当麻の視線が今どこにあるのか、見ずとも何となく解る。


「……なに、興奮したわけ?」


鍛えられた征士の腿の隙間から見えていた雄が、やんわりと勃ち上がりかけているのを、やはり当麻は見つけていた。


「仕方ないだろう…!お前、あんな風に、」


じっくりと見つめられて、優しく撫でられて、宝物のように口付けられたら。
それら全てが、愛しい人に与えられた感触ならば。


「誰も悪いなんて言ってないだろ、何焦ってんだよ」


必死に言葉を繋ごうとすると、甘い声に遮られる。
からかいの陰に隠された、艶。
そっと尻に触れたのは、さらりとした頬だった。


「どうする?口がいい?それとも手?今の腰の状態だとお前、挿れるのは無理だろ?」


さっぱりとした言葉で、けれど甘えるように聞いてくる当麻の手が前に回されて征士の雄に触れる。
その手に、征士の武骨な手が重なる。まるで互いの体を重ねあうように。


「…お前のしたい方でいい」


お前がしてくれる事なら何でも嬉しい。
そう続けた征士に当麻は微笑むと、手を取ってダイニングチェアーに丁寧にゆっくりと座らせた。




*****
お口で決定。
でもすぐ近くから湿布の匂いがしてくると思います。夢中になったら気にならなくなるんでしょうけど!