祝福を!
飲み物はという問いかけの続きにコーヒーを言いかけて、そこで何かを思い出して一旦区切ると、
「…カフェラテなどはどうですか?最近、当麻君が気に入っているものがあるんです」
と別の物を提案してくれる美丈夫の気遣いに、羽柴源一郎は素直に乗る事にした。
今はやめたが、昔は愛煙家でヘビースモーカーだった。
だがどこもかしこも禁煙だ分煙だと過剰なまでの反応を示すようになり、愛煙家は肩身が狭い世の中では、ちょっとした一服も思うように行かない。
その事について苛立つくらいならば最初から煙草を吸うという選択をしなければいいと、数年前に思い切って禁煙した。
しかしその反動なのだろうか、一気にカフェインの摂取量が増えてしまった。
甘党の息子とは違って源一郎はコーヒーに砂糖もミルクも入れない。
それを一日に何杯も飲む。
親子揃っての没頭癖は研究職には打って付で、そしてそれに伴う不摂生はもう何年も続いている。
他の同年代に比べれば頑丈かもしれないが、只でさえ健康診断で毎回何かしら引っ掛かっている胃が荒れるのは、当然の結果だった。
煙草の時と同じく、最早カフェイン中毒と言っても過言ではなかった生活を思い切ってやめるよう気を付けてはいるものの、
だが煙草の時と同じようにはいかない。
あの時はコーヒーというもう1つの嗜好品が代用品として残されていた。だが今はそれができない。
気持ちとしては、逃げ場がない、と言いたいくらいだった。
長生き願望は特になくとも知的欲求は未だ衰えていない彼は、なるべくなら健康に気を遣いたいとここ数年、漸く思うようになった。
しかし長く愛飲してきた飲み物を断つ事は結構難しかった。
つい飲んでしまう事がある。別に悪いことではないが、性格に偏りのある彼は我が事ながらにそれが実はあまり許せなかった。
だから今回のように気遣ってもらえるのは非常に助かるのだ。
あっけらかんとした元妻も、我が子ながらどこか掴み所のない息子も、こういう時は何を飲んでいるのかという指摘をするくらいで、
先回りした気遣いは基本的にない。…尤も自分もそうなのだけれど。
そこにくるとこの美丈夫はとても気が付く人間だ。
上っ面を取り繕ったものではなく、人に対して心からの礼節を弁えている。
嘗てこの美丈夫に、正気かと問うた事が一度あった。
あれはもう何年か前の話だが、ある日彼は自分の所属している研究所へと現れ、ある企画に参加して欲しいと申し入れをしてきた。
当時の源一郎は彼の事は少しだけ知っていた。
昔からある大企業の後取り息子。というのはオフィシャルな情報だ。
だがそれよりもう少し彼の事を知っていたのは、過去、1人暮らしをしている大学生の息子の部屋を訪れた時に、丁度彼もそこに来訪していたのに
鉢合わせしたからだ。
ワンルームの息子の部屋は乱雑で、あの時息子はベッドを背凭れ代わりにして、行儀悪く立膝をして座っていた。
テーブルを挟んでその向かいにいる友人と思しき人物は派手な色彩をしていたが、息子とは対照的に背筋を伸ばし、きちんと正座していたのが
印象的だった。
「すまん、友人が来ていたのか」
そう問うと、息子は「うん、そう」と簡単に答えた。
そしてその友人は正座したまま源一郎の方を向いて、きちんと頭を下げた。
「伊達征士と申します」
だらしない息子にしては珍しいタイプの友人がいるものだと、少し驚いた。
だがその感想もすぐに忘れた。変わり者の息子だ、大抵の事は驚いていても仕方がないのだと。
あの日は土産を渡してすぐに退散した。
あの時、息子は確かに友人だといって彼を紹介した。
だがあの時、彼の自己紹介には”当麻君の友人の”という言葉はなく、ただ名乗っただけだった。
しかしそれは気にすることではなかった。
それから数年後の事だ。
社会人になった息子がマンションを買った事は知っていた。住所も知らされていた。
だが多忙な日々の合間にそこを訪れる事はなく、特にそのマンションについて詮索する事もなかった。
お互いに責任を持った大人なのだ。紹介をしてもらっていないだけで恋人くらいはいるだろうし、その恋人と同棲している可能性だって考えられる。
そこに態々出向く必要もないと、その時の源一郎は考えていた。
そんなある日、派手な色彩をした息子の友人が訪れて件の話を持ってきた。
研究内容は面白そうだった。
息子も参加すると聞いて、父親らしいことなどしてやれていない身の癖に気持ちも浮かれてしまった。
だからそのオファーは受ける事にした。
但しフリーの息子と違って所属先がある自分はあまり長期に外部の依頼を受け続ける事は出来ないため、何度か契約をし直す事になるのは
了承を貰った。
さぁ、話は済んだ。
そう思ったときだ。
「実はもう一つ、お願いがあります」
息子の友人はそう言った。
そして応接室のソファから立ち上がると、突然、床に膝を着き頭を下げたではないか。
一体何を、と問おうとした矢先だ。
「わたくしこと、伊達征士はあなたのご子息、当麻君とお付き合いをさせて頂いております。挨拶が遅れてしまった事が大変心苦しく、
そして厚かましいとは承知の上ですが、どうかそれを彼の父親であるあなたに認めて頂きたいのです」
頭が、真っ白になった。
この男は今、一体何を言った?
当麻と付き合っていると言ったか?
確かに余り家には帰れていなかったが、当麻は間違いなく”息子”だった筈だ。
付き合っているだと?息子と?
まさか友人と思っていたこの青年は青年ではなく、婦人だったのか?
否、どう見ても骨格は男だ。
幾ら綺麗な顔をしていてもこれは間違いなく男だ。
では私の息子が実は娘だったというのか?
そう言えば目以外は別れた妻に顔の造りは似ているな…いや、そんな筈はない。間違いなく当麻は息子だ。
一緒にいた思い出は少ないが、それでも間違いなくあれは”息子”だった。
その息子と付き合っている?男が?息子と?息子が、男と付き合っているだと?
金の旋毛を見下ろしながら、真っ白になった源一郎の頭の中を沢山の言葉と、数少ない息子との思い出が飛び交った。
「一体、……………いつ、から」
長い沈黙の末に口から出たのは、別に気にもしていないような言葉だった。
「18の頃からです。……一度あなたにお会いしたとき、既に付き合っていました」
そして息子と付き合っていると言った青年は律儀に答えてくれた。
「その、…………友人関係の、延長線上みたいな感じで?」
「……いいえ、……………肉体関係を、…持っています」
「どっちがどっちで」
衝撃的過ぎる言葉に対して咄嗟に出たのは、聞きたくもない言葉だった。
どっちがどっちだって、正直、知りたくはない。
息子が男を抱いていようと、男に抱かれていようと、聞かされたところで今はマトモな対応なんて出来ない。
つい口をついて出た言葉に後悔をして、そして質問を取り消そうとしたがそれよりも先に青年は一度頭を上げ、
”恋人の父親”の目を正面から見、そして大真面目に答えた。
「私が、当麻君を抱いています」
「………………………」
頭は真っ白だ。
心も空っぽだ。
あまりに突然すぎる話ではないか。
そりゃ確かにお世辞にも自分はいい父親だとは言えない。
家庭としても、寧ろ世間的には最低な方だ。
自分たちの生活スタイルを考えて妻と2人で出した離婚という結論は、物分りのいい息子に甘える形で成立させた。
後から思えば円満な離婚だったとは言え、息子にとってすればあれは”家族”を放棄しただけに過ぎなかったのではないかと時には反省することもある。
それでも息子に対して、家族に対して愛情がなかったわけではない。
天才だと言われるたびに誇らしかったし、譬え天才でなくたって自慢の息子だった事に変わりはない。
その息子に、父親として平凡でもいいから幸せを願っていた。
それなのに息子が、男と。それも抱かれる立場で付き合っているだなんて。
いや、嗜好は人それぞれだ。
自分の職場にも色んな人間はいるし、世界に出ればそれこそ多種多様だ。
他で受け入れることが出来ているのだから、息子に対してだって時間はかかるかもしれないが拒絶はない。きっと。
けれど、あまりにも突然すぎた。
そもそもどういう神経をしているのだろうか。
息子のことではない。
この友人のことだ。
個人としては拒絶しないにしても、あまり大っぴらに出来る性癖ではない。
ましてや彼は大企業の、本家の後取り息子のはずだ。
それが男と?何を馬鹿な。
いや、そうではない。そうではない。
彼の嗜好は彼のもので、息子の嗜好も息子のものだ。
だからそうではない。
ただ、そう。そうだ。
何故それを、態々公言しようなどと思ったのか。
それも、”抱いている”恋人の父親に。
これは最早。
「…………………………正気か…?」
そう、正気を疑ってしまう。
性生活の話など普通の男女だって言い出し難い内容だ。(聞いたのは自分だけども…!)
それを態々、彼は伝えに来たというのか?
男女の関係ならば結婚という形式が用意されているために、親の許しを得るのは解る。
だが今切り出されている話は男同士で、しかも同性婚の認められていない日本でのことだ。
許しを得るも何も、得たところで何の結果もない。
寧ろ相手の不興を買うか、最悪、関係の破棄を迫られかねないというのに、この男は…何故?
それを思って問うたのだが、自称・息子の恋人は今度は額が床に着くほど頭を下げ、やはり大真面目に言った。
「私は当麻君との将来を真剣に考えております。ですが私が至らないばかりに、知らず彼を傷付け辛い思いをさせていました。
私の立場を気遣ってくれた優しい彼に対して私に出来る事は、私の思いが本気であること、そして彼を生涯手放さないということを、
誓うことだけなのです」
誓うなどと言ったところで。
源一郎のその考えが解っていたのか、彼は更に続けた。
「私の家族には既に関係を打ち明け、了承を得ています。親類にも近々発表するつもりです」
それこそ正気なのか。そう問いたかったが顔を上げた彼の目は真剣そのもので、纏う空気は本気だった。
もう、何も言えなかった。
言わなくてもいいような事を、それでも息子のために態々馬鹿正直に伝えにきたという恋人を見ていると溜息しか出ない。
罵り詰られ、拒まれる可能性くらい簡単に考え付いただろうに。
自らの家族の了承を得られただけでも大金星だ。それにこちらは情けない事に家族の縁が薄いのだから、隠していても何の問題もなかったというのに。
なのに彼は呆れるほどに真面目で、驚くほどに正直だ。
もう一度、息子との思い出を振り返ってみる。
しかし悲しいかな、その思い出の中の息子の成長の記録は少なく、あっという間に終わってしまった。それが源一郎を冷静にさせた。
自己満足でしか息子を愛してやれなかったのは、父母共にある後悔だ。
その息子は自分たちを見て育ったせいで、誰との生活も受け入れられないような性格になってしまっていた。
その息子を愛していると言ってくれているのは同性の恋人で、しかも飽き性で堪え性のない息子と既にもう何年も関係を続けているらしい。
一度冷静になってみると、それが父にはとても有難い存在に見えた。
そう言えばどこか他者を受け入れることが出来なかったはずの息子が、人並みに会話をするようになったのは大学に入るより数年前からで、
普通に考えてみれば恐らく彼と知り合ってからだったのではないだろうか。
それに気付くと、元々同性愛にそこまで否定的ではなかった彼は、自然に「息子を頼みます」という気持ちになってくる。
自分たちが与えてやれなかった幸せまで彼に任せるのではないが、それでも彼が共にいてくれると言うのなら、息子はきっと幸せなのだろう。
そう信じることが、静かな波のように心の中で出来上がってきた。
しかし幾ら受け入れたからと言っても暫くの間はギクシャクはした。
だがこれは、娘を嫁に出した父親の気持ちに近かったのかもしれない。
今は幾分かマシになった。
例えば今のように息子が不在で、その恋人と2人きりにされても変な汗が出ない程度には。
さて、その息子は一体どこへ行ったのか。
買い物だと恋人は教えてくれた。
ではその買い物は一体何か。それを問うとその恋人は乏しい表情なりに笑った。
苦笑い、ではなくて、とても優しい笑みだ。
それを見るたびに、息子は愛されているのだと安心する。
「実はお義父さんが来るというので、今川焼きを買いに行きました」
「今川焼きを…?……別に私は当麻ほど甘党ではないんだがな…さては当麻のヤツ、私を口実にしたか」
仕方のない奴めと呟くと、また征士が笑った。
「そうではありません。近所に出来た店のものがとても美味しくて、ですからどうしてもお義父さんに食べさせたいそうです。
出来立てが美味しいからと、張り切って出かけていきました」
店が混んでいたとさっきメールが来ていたので帰ってくるまで時間は少しだけあります、と言って差し出されたのは優しい色のカフェラテだ。
外が暑かった事を考慮してアイスなのがまた嬉しい。
気遣いも、優しさも、全部彼から息子への愛情なのだと思うと、父の目元も優しさに綻んだ。
息子は今、幸せなのだと知る。
それで自分まで幸せになるのだから、やっぱり自分も人並みに父親だったと源一郎は心の中でだけ勝手に満足してカフェラテを口に含んだ。
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少しすると、息を切らせた当麻が今川焼きを持って帰ってきます。
廊下、走りました。