おうちへ帰ろう
エレベーターホールを出て通路を歩くと、柵の上に薄っすらと残った雪を見つけて征士は微かな笑みを口端に浮かべた。
故郷の冬は東京よりも寒く、雪も多い。
酷いときには玄関を出ると自分の背丈よりも遥かに高く雪が積もっていたほどだ。
その高さは中学生になって成長期が来ても追い越すことはなかった。
記憶の中の景色に比べると量は圧倒的に少ないが、東京でも雪は降る。
時には夜の間に道路に数センチ積もることもあるが、昼頃には解けて薄汚れたシャーベットのような状態になってしまうことが大半だ。
それでも降る。
人が通るのでなければ、今見ている柵のように上に残っている事だってある。
かき集めれば、掌に乗る程度の雪だるまなら作れそうだ。
そう思った征士の視界に、小さな雪ウサギがちょうど見えた。
そういえばこの家には確か小さな子供がいたな。
通り過ぎ様に横目で見て、その微笑ましさに征士はまた笑った。
東京で冬を何度も経験するようになったが、征士にとってもやはり冬は寒いものだとは思う。だが故郷に比べれば幾分かマシだ。
しかし同居人である同性の恋人は生まれた土地がもう少し暖かいせいか、彼はしきりに寒い寒いと口にして背を丸める。
あまりに寒い寒いというので「それ以外に何も言えんのか」と突っ込んだことが有るが、彼はそれを「おはよう」というのと似た感覚で
挨拶みたいなものだと言い張っていた。
本当かどうかは判らないが、何故かそれを聞いた征士は「それもそうか」と納得してしまったものだ。
ただ恋人は冬や雪が嫌いというわけでないのは、雪の降る季節に北にある実家に連れ帰った時の反応で解っている。
寒い寒いと口では文句を言っていても、雪遊びだって寧ろ好きな方なのだろう。
昔、寒い時期に嘗ての仲間と、山奥にある嘗ての共同生活の場で雪を見たときがそうだった。
あの時も最初は寒いし面倒だから嫌だと言っていた割りに、昼になる頃には喜んで雪合戦に参加していたのがその証拠だ。
因みに征士はと言うと、雪が降ると東京でも故郷の空気に近いものを感じるせいか、子供の頃に比べると今の方が浮かれてしまう。
それは口にも態度にも出したつもりはないが、どうやら長い付き合いの賜物か恋人はそれに気付いているらしく、青い瞳でとても優しい目を向けられると
なんとも言えず恥ずかしいような、甘えてしまいたくなるような、兎に角彼と知り合う前の自分なら味わうことのなかった感覚にも心は浮かれるがこちらは内緒。
それにしても寒い。昨夜降った雪が、僅かではあるがこうして残っているほどだ。
寒がりの恋人が待つ家はきっと今頃しっかりと暖房を入れられていることだろう。
だがその暖かな家には、征士の実家にもあったコタツが存在していない。
マンション購入と同時に吟味して揃えた家具とはアンバランスだし、一度置いてしまえばヤドカリかカタツムリの如く恋人がそこを安住の地よろしく
居座ることが目に見えているので、征士は今年もコタツの購入案を却下した。
寒がりの恋人が恨めしそうな目を向けたのは一度だけで、すぐにテレビから流れてきたCMに気を取られていた。
「そうだ、明日の晩飯はシチューにしようぜ」
そして口にしたのがその言葉だった。
幼い頃から他より抜きん出て賢く、様々な事の先が読めていた恋人はよく言えば大人びて、悪く言えば随分と捻くれていた。
その恋人、当麻曰く、
寒い時期にクリームシチューを食べるって言うのは世間に踊らされてるみたいで気に食わないけど、実際に温かいし旨い。だから合理的。
だ、そうだ。
一体何をもってして合理的なのか、そして一体何に対して言い訳をしているのかサッパリ判らないが、素直じゃないくせに同時にとても素直なのが
彼の魅力なので征士は敢えて何も言わず頷いて同意してやった。
それに征士だってこの時期に食べるシチューは大好きだ。
長男の派手な見た目とは裏腹に純和風の伊達家だが、何も日々の食事が和食のみだったわけではない。
他の家庭に比べれば回数は少ないかもしれないが食卓に洋食が並ぶ事だってあった。
そして料理上手な母親の作るシチューは美味しかった。
降り積もる雪を見ながら温かな食卓を囲んだあの時も穏やかで幸せだったが、寒がりの恋人と向かい合っての食事は同じく穏やかで幸せなのに、
少しだけ感情が違って、幸せの種類は大きく違う。
だがどちらも大切な時間に変わりはない。
昨夜のうちに今日の夕食はシチューだというのは決まった。
だから征士は煮込むためにも風呂の前に下準備をしようとしたのだが、それを当麻が止めた。
「明日俺が作るからいいよ」
言葉は相変わらず短かったが、その表情はニコニコとしていた。
両親は多忙だったし幼い頃に離婚しているが、羽柴家でも年に数回は家族揃って食卓を囲んでいたそうだ。
そしてそんな時の冬の定番メニューはシチューかカレーだったのだと、いつか彼本人の口から寝物語のように聞いたことがある。
彼に似て指が細く長い父が野菜の皮を剥き、小学生の息子がそれを一口サイズに切ると、快活だが暢気でもある母が
適当な歌詞に節をつけて歌いながら鍋をかき混ぜる。
時々横から父が調味料で味を調えている間に、息子は食器棚から皿を出した。
食いしん坊の息子を抱えてはいるが、日々の食事についてそこまで味に煩いわけでもない家族が使っているのは市販のルーだったが、
それでもあの時の味は今思い返しても美味しかったとハッキリと言えるものだったと言った彼が幸せそうに微笑んでいたのが、征士にはとても印象深かった。
夜の通路を歩く者は征士しかおらず、しんとした通路に革靴のコツコツという音だけが静かに響く。
不意にどこかの家から匂ってきたカレーの匂いに空腹の胃が刺激され、それがおかしくてフッと笑えば吐く息は白い。
冬だな。当たり前のことだが征士はそう改めて思った。
寒い寒いこの季節がくると、恥ずかしがり屋で寂しがり屋の恋人は家の中ではしょっちゅう征士に身を寄せてくる。
体温が成人男性の平均より低い彼は、体温が成人男性の平均よりも若干高い征士の体が心地良いらしい。
ぴったりと甘えるように擦り寄ってくる姿はもう充分なほどに大人と言える年齢なのに、征士にはいつも可愛らしく映っていた。
だが悲しいこともある。
寒いというのを理由に、行為を拒まれることがたまにあるのだ。
最中は身体中が火照って気にならないそうだが、服を脱がされる時や、終わったあとに身体が冷えてくる時が辛いと言って。
だから征士は寝る前には寝室のヒーターを必ず入れるようにしているし、終わったらすぐに汗を拭ってやるようにもしているのだが、それでも
他の季節に比べると拒まれる事が多い。
寒いというのは単なる口実で、本当は行為自体嫌なのではなかろうかと考えないでもないが、そうやって考えていることもどうやら当麻にはバレるらしく、
「ホントに寒いだけだってば」と慰めるように頬に口付けてくれる事もあるので本格的に辛いというわけではないのだが、それでもやはり悲しくはなる。
その代わり、というのではないだろうが、抱き合わない代わりに夜も当麻は身を寄せてくる。
直接肌を合わせる事はしないが征士の胸元に自ら顔を寄せ、程よく筋肉のついた腕に抱き寄せられることを喜んで受け入れてくれる。
別に普段、抱き寄せると怒るわけではないけれど、それでもいつもより何割か喜んでくれていると思うと征士も満更ではない。
譬えその時に当麻が決まって口にするのが「あったけぇ、この人間湯たんぽ」という言葉であったとしても。
昨夜もそうだった。
いつまでもニュースを見ている征士に、いい加減眠たくなってきた当麻の方からベッドに行こうと誘ってきた。
色気のある内容でも歓迎だが、親にさえ上手く甘えることが出来ないほど不器用な彼が、こうして純真な目で甘える相手が自分だけだと言うのは、
どこへ向けたものか征士自身判らないままだが優越感をいつも感じてしまう。
そんな自分を少し浅ましく思い、恥ずかしくなって「後で行くから先に寝てろ」とつい意地悪を言えば、当麻は眉間に皺を寄せて明らかに不満を見せる。
「一緒に寝たいのにか」
何て可愛い言葉だろうか。
と征士が思ったのは同棲を始めた最初の頃だけで、実は当麻は誰も入っていない冷たいシーツが嫌なだけだ。
何もそれが全ての理由ではないと知ってはいるが、征士だっていつまでも乗せられてばかりではない。
当麻が少しでも気持ちよく眠れるようにとヒーターは入れてあるし、実は湯たんぽも買った。
しかし当麻はそれでも嫌だといつも言うのだ。
「お前の体温が一番眠れんの!俺は!」
腰を上げる様子のない征士に痺れを切らした当麻が更に可愛い事を言ったので、昨夜の征士は漸く腰を上げた。
あまり意地悪をして臍を曲げられても(それはそれで可愛いけど)困るので、今日は当麻が何か言う前にベッドへ行こうか。
そう考えながら歩く征士は、遂に自分と愛しい人の住む部屋の扉の前に辿り着いた。
鍵のかかっていないドアはすんなりと開いて、暖かな光と温かで幸せな匂いが流れてくる。
「お、征士、おかえりー」
ドアが開いた事に気付いた当麻の、機嫌の良さそうな声が聞こえた。
だがしかし。
「………………今夜はシチューではなかったのか…」
リビングに踏み込んだ征士を待っていたのは、カレーの匂いだった。
「え?あぁ、うん。でもさ、今朝お前が出てった後でつけっぱなしにしてたテレビで、カレー特集やっててさ。すっげー旨そうだったから」
カレーは嫌いではない。カレーも好きだ。
温かい食事だし、当麻もご機嫌で喜ばしい。
だが完全に、征士の胃は昨日からシチューのつもりだった。
ぐうぅぅ…
だがやはり食欲を刺激するこの匂いと、そして何より大切な人と囲む食卓の魅力には勝てない。
胃袋からそれを主張され、征士は噴出すと、台所から出てきた恋人の手を取って口付けた。
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そして今夜もくっついて寝る。