青痣



いきなり電話してきたかと思うと、店の休憩時間でいいからこっちに来てくれと当麻は言ったのだが、徒歩10分内に互いの家があるわけではない。
なので秀としては、それは「ふざけんな!」という話で、だから当然の事としてその言葉を口にした。
だが当麻も頼むからお願いだからホント助けると思ってと言って中々引き下がらない。

そのしつこさに最後は仕方なく秀が折れ、彼は昼の営業を終えるとオーナーである父親に断りを入れて車に乗り込み、大急ぎで嘗ての仲間の元を訪れた。
なのに今度は何故か当麻が玄関から出てこない。
出てきているといえば出てきているが、それは手だけだ。
ドアの隙間から、相変わらず神経質そうな指が見えているだけだ。
そして言うのだ。

俺の代わりにコンビニの機械を使ってこの番号の支払いをしてきてくれ、と。

それはどう見てもインターネットの通販の支払い番号だ。
だから、再び「ふざけんな!」で問答が始まった。
態々車か電車でなければ来れない距離の人間を呼び寄せての頼みごとが、同世代の人間が買うには相当頑張った値段のマンションからも
見えているコンビニへのお使いとはどういう事か。
秀が怒るのも無理のない話だ。
なのに当麻は電話のときと同じく頼むからと言うばかりで、やっぱり手しか姿を見せてくれない。

これは何かあるな。とは秀でなくたって流石に思う事だ。
だから秀は何が何でも当麻と対面する事を決めた。
だがドアを掴んで引き開けようとするが、チェーンがかかっていて開かない。
ならばと今度は当麻の手を掴んでぐいぐいと引っ張ったが、相手も踏ん張っていているらしい。

ッテメー!人に物頼むんなら、せめて目ぇ見て物言いやがれ!!
無理無理無理!兎に角さ、事情は今度言うから、だから今は頼むって!

そう玄関先で一頻り喚きあった結果、漸く秀は室内に入る事に成功した。

お前が伸と浮気してるって近所に言いふらすぞ!という、はた迷惑な台詞が決め手だった。
(勿論、はた迷惑なのは伸である)




さぁ先ずは文句の1つでも、と思っていた秀は、やっと対面できた当麻の顔を見て絶句した。


「お、……まえ、どうしたんだよ…」


左の頬から口の端にかけた辺りに青痣が出来ている。
割と新しいそれは、恐らく昨日か一昨日あたりに出来たものだ。
どれだけ頑張って楽観的に考えても、こけた、とか、ぶつけた、なんてものではない。
どう見たってそれは、人の手によるものだ。

5人の中では軍師の役割を担っていた当麻だが、自身も戦いに参加していた身だから、そう簡単に誰かに殴られるとは考えにくい。
仮に考えがあって態とそうさせるにしても、自身のダメージをある程度計算に入れているはずだから、ここまで酷い跡が残るような事もない。

となると考えられるのは本人も全くの予想外だったか、そうでなければ本人がそれを当然として受け入れたという事だ。

だがそうなると”相手”がいる筈だ。
プライドが高い当麻がここまで無防備に殴られている事や今の彼の生活スタイルを考えると、相手は1人しか思い浮かばない。
だがその相手だって簡単に人を殴るような男ではない。
怒りや思いを上手く言葉に出来ない少年だった頃なら確かにそういう事はあったが、今は完全に分別のつく大人になっている。
しかもその男は恋人を何より大事にしている人物だ。その彼が、恋人の当麻にこんな酷い怪我を負わせるような真似をするのだろうか。

僅かな間に色々なことが頭を巡った秀は、それでも恐る恐る口にした。


「若しかして、……征士、…か?」


出来れば違って欲しい。
若しそうだとしても、何か深い事情があって欲しい。それはどちらにも非がないような、出来ればただの事故の様な。

そう思って口にしたのだが、当麻はへにゃりと眉尻を下げて頷いた。
それも何故か、少しだけ照れたように。


「うん、…まぁ」

「まぁって…………何で!?」


思わず胸座を掴みそうになった秀だが、当麻の顔を見てそれは思いとどまった。






「…コレ」


リビングのソファを勧められた秀の目の前に、小さめの物が投げられた。
ローテーブルの上に落ちたそれは、預金通帳だ。
名義は、羽柴当麻、とある。


「…………コレ?」

「中、見てもいいぜ」


他人の通帳なんて覗く趣味のない秀としてはちょっとドキドキしたが、当の本人がいいと言っているのだ。
1人掛けのソファに脚を組んで座っている相手に、礼儀として一応断りを入れてからそのページを開いた。


「………………………………っ!!!?」


驚いた秀は一度視線を当麻に移し、昔から変わっていないタレ目とツリ眉を確認して、そしてもう一度通帳に視線を落とした。


「こ、コレって……お前、何………」

「何って俺の貯金だよ」


ま、”元”秘密の貯金だけどさ。
と言う当麻の言葉を聞いて、秘密という言葉を噛み締めつつ秀はゼロの数を確認する。
桁を間違えたかと何度も数え直したが、やはり間違っていない。ゼロの数が尋常ではない。
20代半ばに差し掛かったばかりの人間の通帳とは思えない金額だ。

飛びぬけて賢かった彼は昔から”小遣い稼ぎ”として株に手を出したり、”バイト”と言って大人に混じって難しい話をしていた事は知っていたが、
それにしたってその金額は秀の想像の範疇を飛び越えている。


「…お前、起業でもするつもりなのかよ………」


土地を買ってビルを建てて会社を興せるくらいの金額だ。
勿論、冗談のつもりで言った秀に、当麻はまさかと苦笑いで答えた。


「それは、元々は俺の老後の資金予定だったんだよ」


好きな事に没頭すると周囲の事などお構い無しになる当麻の性質は、明らかに両親からの遺伝と家庭環境によるものだ。
それについて自覚のある当麻は昔から誰かと家庭を持つという未来を描くことが出来なかった。
子供の頃に経験した両親の離婚はその一端を担っているかもしれないが、それが原因ではない。
それよりも以前から彼らは殆ど家におらず、家庭というもの自体が曖昧で、そのせいで当麻は共同生活というものが全く出来ない状態になっていた。
その性質は多少の改善はされたものの完全に無くなったわけではない。
だから当麻は元々誰かといる未来を、諦めではなく当然のことのように考えてはいなかった。

だが人は誰しも老いるし、そうなれば自分の事さえままならなくなっていく。
そうなった時の為の資金だったと当麻は言った。


「………元々、は……?」


秀はその言葉が引っ掛かって、もう一度通帳を見る。
大学に入る頃までの金額はそう大きな金額ではない。
だが大学入学後から、その預金額が大きく増えていっている。


「お前、若しかしてコレ………………」


浮かんだ可能性は2つ。
そのどちらの方が、より”彼らしい”かを考えてから、秀は言葉を選んだ。


「……口止め料、…かよ…」


言うと当麻が頷いた。やはり、照れたような、困ったような笑みだった。



大学に入る少し前から征士と当麻が付き合いだした。
ずっと好きだったという征士に、これまでずっと女性としか付き合ってこなかった当麻がそれを受け入れる形で。

今までは半年ともたずに恋人と別れていた当麻が、征士との付き合いは長く続いた。
それは彼の性質と本質を理解した上で愛した征士だからこそだったのだろう。それは他の仲間も思っていたことだ。
だが付き合いを続けるうちに、当麻の中で不安が生まれ始めた。

征士は伊達家の、本家の跡取り息子だ。
いずれは家と会社を継がねばならない。
つまり、いずれは誰か、そう、普通に子供を生める女性と家庭を持つ身だ。
その彼に、男と付き合っていた過去があったとバレてしまったら?
抱く側だったとは言え、男と肉体関係があったという過去がバレてしまったら?
何もかもお終いだ。伊達家や企業としての伊達グループではなく、征士自身が。

付き合いだした当初は、人と合わせることの出来ない自分に呆れていつかは征士の気も変わるんじゃないかと当麻は心のどこかで思っていた。
若しそうなってもせめて仲間と呼べる間柄に戻れたらいいなという気持ちもあった。
だが征士はそんな自分を大事にしてくれる。
そして自分もいつしか征士と離れたくないと、心の奥底から執着するようになっていた。

けれど、いつか征士は誰かと家庭を持つ。いつかその日は来てしまう。
若しもその日が来た時、その相手に征士の過去がバレてしまったら。

仲間としても誇りに思える、愛した人の将来をどうにかして守りたい。
そう思うのだが、けれど自ら身を引くという選択も出来ない。
そんな自分が出来ること、と当麻が考えたのが”未来の誰か”への”口止め料”だった。

金で済む問題ではないだろう。
だが出来る事はそれくらいしか思い浮かばなかった。
頭を下げ、口汚く罵られても構わない。
それで征士の将来を守れるのなら、征士の過去を隠せるのなら何だってする。
その為にも目に見える対価も大きい方がいいだろう。

そう思って、当麻は征士にバレないように慎重に預金を増やし続けた。




「なのにさぁ、俺ってば昨日、ウッカリしてたんだよなぁ」


痛々しい痣を顔に残した当麻は、どこか他人事のように暢気に呟く。

いつものように通帳記入して金額を確かめた通帳の入ったカバンをリビングに置きっぱなしにしてしまった、と。
普段なら征士は幾ら恋人のものとはいえ、勝手にカバンを漁るような真似はしないし、自分の名義でない通帳を覗くような真似もしない。
だが勘の良い彼は、恋人のカバンから覗く通帳に嫌な予感を感じ取り、悪いと知りつつその中身を検めた。
そして秀と同じように言葉を失い、それからすぐにその日付と意図に気づいて当麻を問い詰めた。

これはどういうつもりだ。

胸座を掴み、そして怒りに目元を染める征士は、当麻が白状するより先に「口止め料のつもりか」と言った。
自分との手切れ金ではなく、自分の元から黙って去るための資金でもなく、口止め料、と。
征士は勘の良い男だ。
充分すぎる程の金額が蓄えられた口座の使い道が、ありもしない将来の、望みもしない女のためだと知ると激しい怒りが湧き上がった。

私が信用できないのか。
私を信じてくれないのか。
私にはお前しかいないのに。

征士のよく通る低い声は震えていた。





「まぁ、そういうワケで、…コレ」


やっぱり照れたように笑って当麻は自分の口元を指差した。


「コレって………お前なぁ…」

「だって今回の事は俺が全面的に悪いんだもん、しょうがないって」

「しょうがないって言うけどよぉ……そんじゃあ何か、お前は殴られっぱなしになってるワケか」

「俺が悪いのに、何で俺が征士を殴る必要があるんだよ。それに征士、後で謝ってくれたし、すごいヘコんでたのに」

「……まぁ…そりゃそうだろうけどよぉ………」


どう言っていいのか解らなくて秀は言葉を続けられない。
征士の気持ちは解るし、当麻の気持ちも解るだけに何とも言えない。


「いいんだって。それにさ、この貯金は今度から俺ら2人が老人ホームに入るときの資金にする事になったから」

「あーそー…」


同性同士の関係は周囲の目の事もあるが、そういった面でも難しい問題だ。
事の発端になった通帳は、子供を持つことのない関係が老いても続くという緩やかで穏やかな将来へと繋がった。
結果的に2人は互いの存在を確かめ合う事にもなった。

雨降って地固まる。

秀は睡魔と闘いながらの授業で聞いた諺を思い出しながら残りのコーヒーを口にする。
頭がスッキリしてきた気がした。


「…………んで、結局なんだっけ。…あ、そうそう、だからって何で俺を急に呼び出したんだよ」

「いや、俺、これもウッカリしててさ。普段なら俺、ネットの通販は絶対カード決裁にしてるんだけど、中々商品が届かなくってさ。
発送メールも来ないしおっかしーなぁと思って確認したら、何でかその分だけコンビニで先払いにしちゃってたみたいで……
で、メールも確認したらお支払い番号とか書かれたメールが来てて、しかも支払期限が今日で」

「なのにその面で外出れねぇからってか」

「…うん」

「ったく、この間抜け!」

「今回の事に関しちゃもう俺、自分が悪いって認めるからさー、だからさー」


手を合わせて拝まれても「男なんだからツラくらいどうだっていいだろ!」と言うのが秀で、仕方が無いナァと引き受けるのはどちらかと言うと伸なのだが、
今回ばかりは秀も当麻の間抜けな我侭に付き合ってやる事にする。
これからも末永く続く幸せへの祝いも込めて。


「そんかわり、オヤツも買ってくるからな!とーぜん、お前の奢りで!」




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20代半ばの頃。
この件の後、征士は腹を括って自分の家族に関係を打ち明けて、当麻の父親に正直に話しに行くわけです。