インサイド・アウトサイド
夜7時半過ぎの空港に征士が立っているのは、3ヵ月半ぶりに帰国する当麻を迎えるためだ。
シャツやスーツに出来た皺は今日1日仕事をしていた証拠で、なのにその後姿には一切の草臥れた雰囲気もない。
僅かに頬を高潮させ、じっと電光掲示板を眺め続けている姿に、通り過ぎる人、通り過ぎる人、思わず振り返ってしまう。
それでも征士は周囲の視線などお構い無しに、一心不乱に愛しい人を乗せた便の到着時間を眺め続けていた。
当麻が研究で海外に行く事は、年々減っている。
召集が減ったのではない。明らかに、見送る回数が増えている。
行ったとしても昔のように半年以上も征士を放置することも減ってきていた。
それが征士には嬉しくて、少しだけ悪いなと思ってしまう。
当麻の自由は当麻だけのものだ。
一緒に居て欲しいとは常に思うものの、その自由を奪う気は、征士には元よりない。
その当麻が最近は自ら征士の傍にいることを選んでくれている。
嬉しい。その反面、若しかして気を遣わせているのではないかと思ってしまう。
だから今回の出発前、征士は当麻に尋ねた。
本当はもっと海外での研究に参加したかったのではないか、と。
すると当麻は荷物を纏める手を止め、座ったままの姿勢で征士を見上げて言った。
「別に。確かに海外の方が日本より設備が整ってる事は多いけど、最近俺に声がかかってたのは最終的に日本に持ち込むようなものばっかか、
それかスポンサーの意向が強すぎて面白く無さそうなのが多かっただけだよ。何、お前に気を遣って行ってないとでも思ってたのか?」
お前に気なんて遣ってませんという内容に征士は半分ホッとして、そして半分ガッカリして、そうか…と答えた。
単に好奇心を擽られなかっただけ。
実に彼らしいと言えば彼らしい答えだが、何と言うか……やっぱり虚しい。
そう思って素直に項垂れていると、その足元に当麻がぎゅうっと抱きついてきた。
「勝手に落ち込むなよ。俺が征士といる方がいいって思ったから、行ってなかっただけなんだってば」
今回の遠距離恋愛は久々に長かった。
あの時の当麻の言葉から考えれば、では自分といるよりも今回の研究の方がいいと思ったのかと考えないでもなかったが、
彼にだって選択の自由はある。
それに最終的には自分の元に帰ってきてくれるのだから、と征士はつまらない揚げ足をとるような真似はしなかった。
次々に乗客がゲートから出てくる。
平日の夜という時間帯もあって、大抵の人は仕事関係のように見えた。
中には如何にも旅行帰りという雰囲気の人たちもいたが、征士はやはりその誰にも目もくれず、じっとゲートを見つめ続ける。
すると擦りガラスの向こうに、長身の割に細身のシルエットが見えた。
間違いない。当麻だ。
征士はゲートが開くのをもどかしく待ち、そして心持ち少し前に出た。
「征士」
ゲートが開くと、向こうもすぐに気づいたようで片手を上げて名を呼んでくれる。
久々に直接聞く声は甘く、垂れた眦が更に下がる笑い方も変わっていない。
「当麻」
ただ、発つ前より少し痩せたように見えて、征士はほんの少しだけ眉をひそめた。
今回の行き先はアメリカ。
日本とは昼夜が殆ど真逆の位置に彼は居て、そう言えば征士が眠る時間帯に電話をかけてきたときに、
こちらの時間帯を考慮したとは到底思えない声で「おやすみ」と言われた事があったのを思い出す。
生活のリズムがぐちゃぐちゃだったんだな…
それだけ研究に没頭してしまっていたのならば、下手をすると食事さえ何度か忘れている可能性がある。
食べることと眠ることが大好きなくせに、一度没頭するとそれら全てを忘れるという困った癖が当麻にはあった。
家にいる時ならば征士がその都度注意できるが、離れて暮らしている時は流石に無理だ。
電話やメールで何度か忠告はしておいたが、それを当麻が全てちゃんと聞き入れられるとは思えない。
思わず溜息が出そうになる。
だが今日は3ヶ月ぶりなのだ。そんな話は明日以降にでもしておいて、今は。
「疲れたんじゃないのか?」
「まあね。でもお前も仕事だったんだろ?いっつも悪いな」
「お前の移動距離や時間に比べれば大した事はない」
当麻が持っていた荷物はA4サイズのカバンが1つだけ。
大きな物は全て別の便で送っている。着替えなどはマンションにも残しているし、日常ですぐに必要なものはこれだけで済むのだろう。
そのカバンを当麻の手から取る時に、征士はさり気なくその手に触れた。
人目があるから、ほんの少し、触れてしまったという風を装って。
「あ、いいって。別に重くないし」
「構わん。さっきも言ったがお前は長時間、飛行機の中で座りっぱなしだったのだ。疲れているだろう」
「平気だけどなぁ……でも、まぁ、じゃあお言葉に甘えて」
悪いね、と言って笑う当麻と並んで征士も歩き始めた。
その距離も、少しだけ遠い。
人目が、あるから。
昔に一度だけ、同じようにアメリカから帰国した当麻が、征士を見つけるなり抱きついてきた事があった。
向こうでの生活が変に長かったからつい、なんてフザケながら。
ただの友人同士のじゃれ合い。そういう風を装って、そんなつもりで寂しさを忍ばせて抱きついた。
けれど久々の体温にお互いに離れがたくなり、けれど周囲の目があるからと消化不良の気持ちを抱えたまま、あの時は無理矢理に身体を引き離した。
すぐ近くでは同じように恋人を迎えに来ていたカップルが寂しさを埋めるように抱き合っていたのを、征士はなんとも言えない気持ちで見るしかなかった。
「な、今日の晩ご飯、何?」
駐車場につくなり、当麻は嬉しそうに聞いてきた。
「今日は里芋とインゲン豆の煮物と、豚のしょうが焼きだ」
「味噌汁の具は?」
「豆腐と長ネギだ」
やった!と嬉しそうな声を上げた当麻が助手席に乗り込む。
帰国の日時を知らせる電話で、征士は当麻に何が食べたいかと尋ねた。
空港からの帰りにどこかで食事をして帰るのはいつもの事で、恋人のリクエストと食道楽の舌に適う店を探すのは、征士の楽しみの1つでもあった。
けれど今回、それを尋ねると当麻はほんの少しだけ悩んでから、「お前の作った飯が食べたい」と言い出した。
随分と可愛い事だ。
それに浮かれた征士は昨日の夜から煮物に取り掛かり、豚肉の下拵えをして、朝のうちに炊飯器のタイマーをセットしてきている。
後は少しだけ調理すれば食べられる状態にしておいた。
「帰ったらすぐに肉を焼いて食べよう」
「うん」
まるで子供のように素直に喜ぶ姿に征士は目を細める。
四捨五入すれば40にもなるというのに、当麻のこういう所はいつまでたっても純粋なままだ。
捻くれた物言いは相変わらずだし、屁理屈をこねるのも相変わらず。
大人びていたのは昔からなのに、時々物凄く素直なのが当麻の可愛いところの1つだと征士はいつも思う。
そのあまりの可愛さに頬に触れたいという衝動に駆られるが、まだ外で、人目はある。
だからぐっとそれを堪えて、ハンドルを握った。
車で高速を走り続けて、漸く2人の住むマンションが見えてきたのは夜の9時前だった。
玄関の鍵を開けた征士は、すぐ後ろに立っていた当麻に道を譲り、先に入るよう手で示した。
「たっだいまー」
久々の我が家に、当麻が浮かれた声を出す。
その背を追って征士もすぐに玄関に入った。
「………おい」
ドアを閉め、鍵もかけて靴を脱ごうと思うのだが、出来ない。
先に入った当麻が、玄関に立ったまま、靴も脱がずに立ったまま、いる。
社会人になってから2人で購入したマンションは、同世代からすれば当時随分と頑張った値段だった。
だがその値段に見合うだけの広さと快適さはあるし、何より長身の彼らでも苦しくないほどに天井も高く、決して後悔のない買い物だった。
だから玄関もそれなりには広さがあるものの、こうして靴も脱がずにドアの傍で立ちはだかられると、男2人もいれば、不便はしてしまう。
「おい、当麻、」
流石に邪魔だと思った征士が名を呼ぶと、当麻が振り返る。
そして意味ありげに笑うと、征士の首に腕を回し、
ちゅ。
と、軽い音を立てて征士の唇に軽く口付けた。
「……………………、」
「ただいま、征士」
もう、人目はない。
仲のいい友人同士を装う必要など、もうない。
その意図に気付いた征士は当麻の腕が首から離れる前に、その細い腰に腕を回してしっかりと抱き寄せる。
「ああ。…おかえり、当麻」
それから今度は自分から口付ける。
さっきよりも、もっとしっかりと。
久々に抱き寄せた身体は、やはり痩せていた。
その事について思うところはあったがそんな事は明日にでも言えることで、それよりも今はもっと愛しい人の存在を確かめることを優先したい。
最初は軽く触れ合わせるだけだったキスも気付けば互いの唇を食み合い、いつしか舌を絡め合わせ始める。
何度も首の角度を変えながら、深く、浅く、時には焦らしながら互いを貪欲に求め合う。
征士が求めるように、当麻も積極的に征士を求めてくる。
想いは同じ。それが嬉しくて堪らない。
時々漏れる当麻の甘い声に、征士は感情の全てを満たされながらその腰を強く抱き寄せた。
「……ん…っ」
嬉しいだとか寂しいだとか、愛しい可愛い気持ちいい。
全ての感情の答えが恋人の存在だけで埋め尽くされていく。
その感覚は徐々に熱となり、下肢に集まり始めていく。
もっと欲しい。
そう素直に思い始めた頃に、漸く互いに満足して唇を離した。
かなり長い時間絡み合った唾液が糸を引き、ぷつりと切れる。
「……………このままベッドに行くか?」
唇を拭う仕草にさえ欲情した征士が尋ねると、当麻は青い目をくるりと天井に向けて何かを思案する。
少しの間を置いて答えが決まったらしい彼は眉尻を下げて、それもイイケド、と口を開いた。
「俺、やっぱ腹減っちゃってるわ」
「…先に食事か?」
征士の声は素直に不満を告げている。
それは当麻も解ってはいるようだが、うん、とやっぱり困ったように眉尻を下げて頷いた。
征士の眉間に皺が寄る。
「とうま、」
「そりゃさ、俺、……こんな状態だけど」
素直に食事させてくれなさそうな征士の太腿に、当麻は自らの股間を押し付けた。
その感触はジーンズ越しでも解るほどに膨らみ、そして熱を持っているように思える。
「俺、お前の飯があるからって機内食、殆ど食べなかったんだよ」
美味しいものが待っているというのならそれを最高の状態で味わいたい。
そう思って当麻は機内食の殆どを残した。
大食漢の彼にしては珍しい事に。
それは征士としても嬉しいことだ。
けれど、正直、征士の下半身も先程の当麻の下半身と同じ状態になってしまっている。
「私も今、こういう状態なのだが……食事の前に少しだけでも?」
駄目か?と問うと、当麻は困ったような笑みのまま、首を横に振った。
「駄目。そっちも俺、中途半端じゃなくってちゃんとシたい」
吐き出すための性欲ではなく、確かめ合う行為としての性欲がいいと言う当麻は、本当に可愛い。
ここまで言われると征士としても食い下がる事はしない。
気持ちは同じだ。
恋人の存在を、存分に確かめて充分に愛したい。
眉間の皺を引っ込めた征士は、今度は当麻同様に困ったような笑みを浮かべる。
「しかしこの状態では少々辛いな」
「まぁな。…でも俺、このまんまで征士と食事したい」
「このままで?」
「うん。おっ勃たてたまんま、征士とご飯食べてイチャイチャしたい気分」
色んな意味で辛い状況のような気もするが、そう悪い気もしない。
そう結論を出した征士は、もう一度細い腰を抱き寄せて、額を合わせる。
「では、セックスはその後で?」
「その前に風呂入りたい。飛行機の中、変に暑くて身体中がベタベタしてる気がするんだ」
「風呂に入るなら食後30分は空けなければ消化に悪いぞ?」
「相変わらず律儀だなぁ……。じゃあ風呂まで30分、イチャイチャする」
「ほぉ。…それで?」
「風呂でもイチャイチャして、それでその後ベッドに行く」
「成る程な」
「うん。……征士」
「何だ」
「……今日は思いっきりシてくれんだろ?」
普段よりも、甘い声。
元々当麻の声はそう低くはない。
甘えるような口調になるのは仲間の前でも偶にならあるが、こういう声は征士と2人きりの時にしか出さない。
きっと無意識だろう。それが征士には堪らない。
「3ヵ月半もお預けを食らっていたんだ。思いっきり、堪能させてもらう」
至近距離で微笑んでそう告げると、当麻もくすくすと笑う。
おっかねーなー、と言う唇を征士が舐めると、当麻は更に笑い声を立てて「腹減ったー」と言った。
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そして、ゆうべはおたのしみでしたね、な感じになる訳です。
征士は満足して仕事へ行き、当麻は満足したはしたけれど、しんどそうに1日ベッドで過ごすのだと思います。