PM5:30の帝王
夕方5時半前、店内は微かにだがそわそわとした雰囲気に包まれた。
その客が店に来るようになったのは1ヶ月前の水曜日のこの時間だ。
紛い物ではない金の髪に紫の瞳、そしてそれらを納めるに見合うだけの美しい白い肌の派手な色彩をもった客は男で、
店に入った瞬間から全ての視線は彼に釘付けになった。
男の背は高い。
落ち着いた雰囲気と身のこなしからそれなりの年齢だとは解るのだが、同時に真っ直ぐに伸びた背筋には草臥れた雰囲気などなく、
30代半ばを越えたくらいだろうと思われる。
人並み外れて整った容貌は輝くように眩しく、だが決して儚くない存在感はまるで王のようにさえ見えた。
初めて来店して以来、毎日ではないが毎週水曜日になると彼は店に来て、ショーケースに並ぶ様々な色、形のスイーツを真剣に眺め、
時に新作に目聡く気付き、時に糖度や使用した材料、それこそ産地まで確認したうえでいつも5種類のケーキを買って行く。
しかしその一連の流れの間、店に見合う柔和な雰囲気は彼にはなく、ほんの僅かな一瞬だけ、本当に僅かな一瞬にだけ薄く口元を緩めるだけだ。
あまりにも真剣に選ぶものだから、ある時、スタッフの1人が尋ねた。
「ケーキがお好きなんですか」と。
確かに店の造りはどちらかと言わなくても女性向けだし、併設されているカフェでお茶をしている客も女性ばかりだ。
そんな店に居て男性1人というのは気恥ずかしいのかも知れない。だからニコリともしないのだと思って、なるべく声を潜めて優しく声をかけた。
だがその男は言われた途端、微かに浮かべていた笑みらしきものを引っ込め、口を真一文字に引き結んで、
「いいえ」
と短く、そして低く返したのだった。
男性1人で来店する客は何も彼だけではない。その大抵は彼のように言葉が少ないが、そう尋ねると大半がハニカミながらも「はい」と答える。
だが彼の否定の言葉には予想していた気恥ずかしさなど微塵もない。
寧ろそこにあるのは心からの否定と、そしてこれ以上立ち入る事を一切許さないという拒絶が滲んでいて、話し掛けたスタッフは
失礼しましたという言葉の後を続けることが出来ず、後は俯き気味に己の仕事に戻っていくしかなかった。
その男は今日も5時半過ぎに店内に入ってきた。
一斉に店のスタッフが入り口を見る。
接客中の者でさえ横目で盗み見るほどの美貌の持ち主は、やはり今日も真っ直ぐにショーケース前に進んできて新作がないかまずチェックを始めた。
男の名が伊達征士といい、日本でも有数の大企業の跡取り息子だと彼女たちは知らない。
征士が毎週水曜日の仕事帰りにケーキを買う理由は、当然、甘党で大食漢の恋人・当麻のためだ。
それも普段なら顔を顰めるような量を毎週。
これには勿論、事情があった。
ある日、当麻の元に大学生の頃世話になった助教授(今は教授)から、ある企業のホームページに掲載するコラムを書いて欲しいという依頼がきた。
内容は「環境と宇宙について」。
当麻の専門が何かと聞かれると、多岐に渡り過ぎて征士にはすぐに答えることが出来ないのだが、宇宙というのならばその人選が正しい事は解る。
嘗て天空の鎧の主であった彼は子供の頃から宇宙が好きで、知識も深い。
その彼にその事についてコラムを書いて欲しいというのは解る。
だがそれが企業からの依頼として考えるにはあまりにも漠然としすぎていた。
それは当麻も思ったらしい。
だからどういう経緯でそのテーマを掲げたのかと恩師に尋ねた。
すると彼は少し困ったような笑みを浮かべながら、
「実はISOの絡みを受けて、環境問題にこういった分野でも関心を持っているという事をアピールしたいらしくて…」
と答えたそうだ。
それには当麻も肩透かしを食らったような顔をしたそうだ。その話を聞いたとき、征士も同じような顔をした。
だがまぁ企業とはそういう面もあるものだ。
それはそれで納得というか、それでも仕事だからと当麻はそこは…まぁ腑に落ちないが無理矢理にも環境という部分については納得する事にした。
しかしでは宇宙はどうして出てきたのだろうかと今度はそちらが気になってくる。
どうも恩師の態度からして深い理由は無さそうだがそちらも確認すると、これにもやはり恩師は困ったような笑みを浮かべたまま答えてくれた。
「ほら、ここ最近は例の宇宙船探査機のことで、宇宙自体にも関心がいってるというか、注目されているというか、取っ掛かりにはもってこいというか…」
つまり、ブームだから、という事らしい。
あまりの安直さに流石の当麻も呆れ返ったようだが、それでも今回の仕事を受ける事にした。
それを征士が何故と聞くと、聞かれた当麻の眉尻がきゅーんと下がった。
本当のところはどうやら彼も困っているらしい。
だがそれでも受けたのは、偏に恩師が困っていたから、だそうだ。
恩師と企業に直接の繋がりはない。
だが、恩師の兄の嫁の母の知人の息子の幼少期からの親友の父の知り合いの従兄弟が、その企業に勤めていて、
専門家でその世界ではそれなりに有名で日本在住で天才であわよくば見目のいい誰かを知らないか、と上司に半ば脅すように言われて困っていたそうだ。
スタート地点は随分遠い縁だが、その彼の困りごとは伝染して結果的に当麻の恩師が困る破目になってしまった。
普通にきた依頼なら、宇宙ナメてんのか、と言って噛み付く(かも知れない)当麻だが、恩師が困っているのでは仕方がない。
クールで他人の事など知らないというように見えて、当麻は結構義理堅い男だ。
結局、「………わかりました」と最終的には引き受ける事にした。
契約期間は半年間。
コラムは毎週水曜日が締め切りで、木曜日に新しいものをホームページ上に更新していくという、中々にハイスピードな内容だ。
だから当麻は毎週火曜日の夜中までに原稿を仕上げてデータをメールで送り、水曜日に打ち合わせをするというサイクルで仕事をする。
そうなってくると火曜日の夜は相手をしてくれない可能性が高くなり、最初は渋い顔をしていた征士だが、ある事に気付いてその感情は180度反転した。
契約が半年、という事は、少なくとも半年間は当麻が海外に行く事はない。
もう何年も一緒に居るし駄々を捏ねる気などないが、それでもやはり寂しいのだから、あまり当麻に遠くに行って欲しくないのが征士の本音だ。
だから征士は考え方を変えると、後は上機嫌にその仕事を聞くことが出来た。
そうして迎えた最初の火曜日の夜、やっぱり当麻は仕事部屋から中々出てこなかった。
かなりの譲歩をして受けた仕事だが妥協はしないのが彼だ。
ああでもないこうでもないと、何度も推敲を重ねているのだろう。それを理解した征士は先にベッドに入る事にした。
その際、徹夜を心配したのだが朝にはちゃんと当麻が隣で眠っていたので、それも大丈夫だったようだ。
「原稿は書けたのか?」
「うん。後は打ち合わせだけ」
当麻がいつもより少し遅めに起きてきた朝食の席で尋ねると、その目はまだ少し眠そうだったが、大丈夫だという返事があった。
「ならばその後で少し休め」と人よりも睡眠を欲しがる恋人の身体を気遣って征士が言えば、テーブルを挟んだ向かいで当麻が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そうだな。昨日出来なかった分、今日シたいしな」
「……お前は、」
それは確かに嬉しい申し出だけれど、何も四六時中そういう事を望んでいるわけではない征士としては、少しばかり不本意だ。
どうしても緩んでしまう口元を必死に堪えながら窘めようとすると、当麻は気紛れな風のように今度はあっけらかんとした笑い声を上げる。
「冗談、ジョーダン。…でも今日は夕食、俺が作るよ」
征士を玄関まで見送る時には既に彼の意識はハッキリしており、目にも力があった。
「いってらっしゃーい」
だがその暢気な口調とは裏腹に、青い目には朝よりももっと強い力が漲っている。
それは普段のものではなく、過去に見た”智将”としてのものが近い。
コラムを書くという仕事を征士はした事がないが、やはり修正や訂正など色々と精神力が必要なものなのだろうとコッソリと思った。
しかも今回が初の打ち合わせだ。
ここで変に遠慮や妥協をしては、互いに納得のいく仕事など出来ない。
譬えどんな経緯で引き受けた仕事であろうとも一切の妥協をしない恋人に尊敬の念を抱きつつ、健闘を祈ると心の中でエールを送って家を出た。
水曜日は残業を許されずに全社員が一斉に会社から追い出される。
だから征士も5時で仕事を終えて、恋人の待つ家に真っ直ぐに向かった。
もう仕事は終っているだろうか。
手応えはあったのだろうか。
気持ちのいい仕事は出来ているのだろうか。
まるで我が事のようにドキドキとしながら玄関を開けると、当麻の声が聞こえてきた。
独り言にしては随分と大きい。電話をしているようだ。
まだ仕事は終っていなかったのかと少しだけ残念に思いながら、征士は邪魔にならないよう極力足音を立てないように自室に入ると、
普段より少し早口になった当麻の声が聞こえてくる。
だからそれだけの文字数じゃアンタらが初回で書けっつってる内容は書き切れないし、話を詰め込みすぎて知らない人間は混乱しかしないってば。
小学生くらいの子供をメインターゲットにしたいってんなら尚更だ。
それから宇宙ゴミって単語が入ってるのがイメージ悪いって言うけど、スペースデブリの事だって注釈で使ってるだけだしニュースじゃそう呼んでるだろ。
そっちの方が浸透してるじゃないか。専門用語ばかりじゃその度に単語で引っ掛かって話が進まなくなって、子供なんてあって言う間に興味失くすぞ。
そもそもアンタんとこ、宇宙なんて壮大なテーマと直接関係ない会社だろ?ISO関連でアピールしたいだけなんだろ?
専門用語ばっかで画面埋めたって客層が違いすぎて最終的には誰も見なくなるぞって俺は言いたいんだよ。
うん。うん。いや、だから初回こそ丁寧に説明をする程度に留めとかないと駄目だって言ってるんだ。…はぁ!?
という内容を、随分と分厚いオブラートで包んで話している当麻の声(但し最後の「はぁ!?」はそのまま)を、征士は眉間に皺を寄せて聞いていた。
言葉こそ精一杯穏やかに表面を取り繕っているが、当麻の発音に生まれた土地のものが時折混じっている。
……これは相当怒りを堪えているな…
そっと溜息を吐くと、帰宅時と同じように足音を抑えてリビングへ向かった。
テーブルの上には何もない。
台所も使った形跡がない。
となると。
「下手をすれば朝からずっとあの調子のようだな」
朝には夕食を作ると張り切っていた当麻だが、予定通りに事が運ばなかった事もあの声の原因かもしれない。
畑違いのくせに体裁ばかりを整えようとする企業を相手にすると、疲労感は常よりも重く圧し掛かるものだ。
特に最初の打ち合わせ、しかも互いに直接の知り合いではないから尚の事。
それは征士にもよく判ることで、だからこそ夕食を作っていない当麻に対して文句などなく、寧ろ同情心ばかりが募ってくる。
だから征士は、せめてと思って普段なら進んで取ることのないピザの宅配メニューを捲る。
そこの店のものは当麻もお気に入りだし、それに何よりデザートの類が豊富だ。
頭脳労働にも甘いものは良い。(と当麻がしょっちゅう力説してくる)
それに何より甘いものが大好きな当麻だ、労わる意味も込めて今日はいつもより多めに食べさせてやろう。
そう思って征士は子機を手に取った。
最初はどんな事だってぶつかるものだ。
そう思って。
だがあれ以降も当麻と企業の例の遣り取りは毎週続いた。
どうやら相手は本気で体裁しか考えていないらしい。
部外者ながら流石に腹が立ってきた征士などはつい、家の圧力を使ってやろうかと通常ならば思い至りもしない考えにまで達したが、
当麻はか弱い女ではないし、ましてや庇護が必要な子供でもない。
自らが引き受けた仕事である以上、チョモランマより高いプライドも相俟って当麻はそれを拒否した。勿論、征士のその気遣いには感謝して。
そしてこうなってくると、征士ができることと言えば、極力当麻のストレスを軽減させることくらいだ。
だから。
征士は洋菓子店でいつものようにショーケースを瞬き一つせずに見つめる。
野苺のティラミスは先週はなかったはずだ。
ベリーのタルトは先々週からあるがそういえば買ったことがないな。
今日はこのジュレも買ってみよう。しかしこれはゼリーと何が違うんだろうか…
そうだ、確か当麻は一昨日あたりにテレビに映ったシュークリームを凝視していたな、ではこれも買おう。
それから。
「後はこの南瓜のプリンを2つ」
頭の中で沢山の事を思いながら、口にするのは商品名と個数だけ。
愛想がなさ過ぎると人から言われることがあっても、征士にはそれを直す気がない。
1時間分の保冷剤を入れてもらった箱を受け取って、征士は駐車場に止めたナイトブルーの車に乗り込む。
ティラミスもタルトもジュレもシュークリームも全て1つずつ。全て当麻のもの。
南瓜のプリンだけは2つあるのは、1つは当麻のもので、もう1つは征士のもの。
甘いものがあまり得意ではない征士だが、南瓜は彼の好物だし、このプリンは甘さが控えめだ。
だが本当はそんなに食べるつもりがない。ただ当麻が自分だけ食べるという事に申し訳なさを覚えるから、それを軽減するために買うだけ。
と言ってもその南瓜のプリンだって、自分の分を食べ終えた当麻が「もうちょっとだけ食べたい」と言って3分の1は征士のものを食べてしまう。
このままでは自分が食べる分は1口程度になるかもな。
そう考えるも、決して不快感などない。
ちょっと食べたりないからと言って皿ごと交換するのではなく、身を乗り出して自分の皿から少しだけ貰う当麻が可愛いくて仕方がないのだ、征士は。
それに最近では仕事明けの甘味を楽しみにしている彼がまた可愛い。
先週などケーキを楽しみにしすぎて昼食を人並みに、そして間食も夕食のつまみ食いせずに征士の帰宅を待っていた当麻は空腹に耐えかねて、
クッションを抱えたまま玄関で蹲っていた。
「腹減ったよぅ…」と情けない声を出しながら。
賢くて理性的でクールに見られる彼の、あまりにも幼く間抜けな姿に胸が締め付けられるほどにときめいたのを思い出して、征士は微笑む。
「すぐに帰るからな」
ハンドルを握った征士は嬉しそうに呟いた。
そんな彼の事を、店のスタッフ全員が”南瓜帝王”と呼んでいることを彼は知らない。
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だって征士の名前を店員さんたちは知らないワケですから。