ウィークエンダー
夕食後に何気なく観ていたテレビでラテンアメリカ最北の国の、その中でも北部に位置する砂漠にある洞窟の映像が映された。
長らく未開の地となっていたそこには美しく巨大なクリスタルがあるという。
それを見た当麻が、凄いなぁ、と呟いたのを征士は聞き逃さなかった。
洞窟は地下300メートルにあるために気温が60度近くまで上がり、湿度は90%から100%を常に保っているという。
適切な装備を整えずに踏み込めばものの10分で死に至ってしまう。無論、許可なしに立ち入る事は出来ない。
仮にそんな場所へ向かうのならばヘルメットやヘッドライトは勿論の事、酸素ボンベに断熱のためのベストに保冷剤、それから送風装置と防水のための
装備まで必要になり、それだけで20kgほどの重量になる。
そんな場所で活動できる時間はそこまでしても5分ほど。これはあくまで健康を考えての時間とはいえ、そんな世界だ。
それを聞いても当麻はうっとりとした目で、凄いなぁ、と呟く。
征士は横目でその様子を伺うと、頬まで染めていた。
マズイ。
征士はそう思った。
これが他の誰かの単なる呟きならば征士だって「そうだな」と素直にクリスタルの美しさに感嘆の声を漏らすことが出来ただろう。
だが呟いている人物は、他ならぬ羽柴当麻だ。
面倒臭がりで暑い寒いを嫌う彼は現代っ子(もういい大人だけど)を絵に描いたような男だが、困った事に彼の肩書きの1つは研究者であり、
そして一度好奇心を擽られれば普段ならば盛大に顔を顰めるようなことでも嬉々として取り組む性格の持ち主だ。
しかも活動時間が5分ほどという制限がまた、彼の心を大いに揺さぶるのだろう。
その制限の中で如何に結果を出すかと言うのが、彼は結構好きなのだ。
だから征士は、マズイ、と思った。
普通ならば許可がいるというが、当麻はその業界では天才として有名で、その範囲は広い。
伝手だって、一体どういう関係だと首を捻りたくなるところにまで持っているものだから、彼のこの呟きが単なる感嘆で終わるなどと安心は出来ない。
メキシコは遠い。
きっと出向いてしまえば暫くは帰ってこないだろう。
そうなってしまえば、征士は何よりも愛しい恋人と離れ離れの生活を余儀なくされてしまう。
だから行かないで欲しいと言いたいが、言えない。
言えば、若しかしたら当麻は行くのを取り消してくれるかも知れない。
だがその身の軽さが彼の魅力の1つだ。他の人間ならば躊躇してしまうような事さえも、彼は軽々と飛び越えていく。
その時の表情は活き活きとしていて、とても美しい。
だが恋人を手放したくはない。
だから征士としてはそれは困り果てて、心の中で必死に「どうか当麻が行きませんように」と祈るしかできないでいた。
そして迎えた翌日は、ノー残業デーと決まっている金曜日。
終業のチャイムが鳴ると同時に征士はカバンを手にしてすっくと立ち上がり、ドアを目指した。
その姿を後輩が目聡く見つける。
「あ、伊達さん。もし良かったら今日、飲みに行きませんか?」
金曜日に飲み会が行われる事は多い。
それは前もって計画されているものもあるし、こうして思いつきで行われるものもある。
容姿は申し分なし、仕事も出来る、そして会長の孫という立場にありながらも決して驕ることなく実直な人柄となると、まだ社会人として
歴の浅い者達は征士に対して崇拝に近い眼差しを向ける事もある。
この後輩もそうだった。
他の者に比べると割と話しかけてくることの多い彼は、憧れの先輩ともっと話してみたいという気持ちから声をかけたのだが、しかし征士は振り返ると、
「すまん。行かん」
と一切心の篭っていない詫びの言葉と愛想のない断りの言葉でそれをアッサリと断って、そのまま地下へ続くエレベーターへと向かった。
駐車場に降りると社会人がするには随分と本気のダッシュで車に乗り込み、そしてハンドルを握ると大慌てで車を発進させる。
生真面目な性格だから交通ルールはきっちり守りながらも、急いで目指したのは勿論、愛しい人との愛の巣だった。
大急ぎで玄関を開けると当麻の靴がある事に、先ず安堵する。
だがここで油断してはならない。
本人に断りなくというのは若干気が引けるのだが、この際仕方が無いと彼の個室を覗く。
どこにも旅行カバンがない事に漸く安心した征士は、リビングに入って目を見開いた。
「お、征士、おかえり」
嬉しそうな声を出す当麻はエプロン姿で、手には魚の乗った皿を持っている。
「……夕食を作ってくれたのか…?」
「そ。サバの味噌煮。今日さ、テレビで簡単で美味しいサバの味噌煮の作り方をやっててさぁ、そしたら食べたくなって」
どう、旨そうだろう?と征士にも見えるように皿を傾けている当麻はニコニコと機嫌が良さそうだ。
だが征士は素直に頷くことが出来ない。
硬い動きでテーブルを見ると、そこには既にほうれん草の胡麻和えと揚げ出し豆腐、そして味噌汁は恐らく玉葱と玉子が入っているものだろう、
それらがほこほこと湯気を立てて存在していた。
どれもとても美味しそうだ。
だが征士の心はどんよりと曇っていく。
「………作ったのか」
「うん。スーツ脱いで来いよ。飯にしよう、腹減ったし」
嬉しそうに言う当麻の声に背を押されて、征士はのろのろと自室へと一旦引っ込んだ。
そして、マズイマズイマズイ、と心の中で呟く。
背中には嫌な汗が伝ったような気がした。
当麻が夕食の準備をする事は何も珍しいことではない。
基本的には征士が作る事が多くたって、当麻だって料理くらいはする。
腕だって食道楽なだけあって、中々のものだ。
だが、今夜ばかりは征士は素直に喜ぶことが出来ない。
だってまるで。
「最後の晩餐のようだ……」
声に出した途端、征士は思いっきり落ち込んだ。
まるで近いうち、下手をすれば明日にでも当麻がメキシコに飛ぶ気がしてしまう。
そうなれば暫くは会えない。だから、最後の晩餐を、恋人と。
先程の温かな食卓がそんな風に見えて、征士はとても怖くなってくる。
カバンはなかったが明日には当麻はケロっとした顔で「じゃあ行ってくるから」と言って、玄関から出て行ってしまう気がしてしまう。
ああ、どうか、どうか。
そう祈りながら眠りに就いたものだから、征士は当麻をしっかりと抱き締めすぎて、「ちょっと苦しい…」と眉を顰められてしまったのだった。
意識がほんの少しだけ覚醒する。
すると腕の中にあったはずの感触がない事に気付き、寝惚けながらもその姿を求めて征士の手はシーツの上を彷徨った。
近くをぼすぼすと叩き、見つからないので今度は少し伸ばしてぼすぼすと彷徨わせる。
規則正しい生活をする征士の起床時間にはまだ少しあったが、それでもやはり求めるものが見つからなくて、遂に征士の意識は急激に覚醒した。
そして身体を勢いよく起こす。
「……………!!!」
ない。ない。
いない。
当麻が、いない。
昨夜、一緒にベッドに入った。
肉の薄い身体を抱き締めて寝た。
なのに、当麻の姿がない。いつも征士が起こさなければ起きない筈なのに。
「……………、ど……どこ、に……」
撫でたシーツが既に冷たい事から、彼がベッドを抜け出てある程度時間が経過していることが解る。
トイレにでも起きたかという期待はそれで消えた。
昨夜は抱いてもいないのに。
一瞬そう考えて、それどころではないと征士は頭を強く振る。
抱いてないどころか見送りの挨拶さえないままに、当麻は行ってしまった。
2人の付き合いは長く、倦怠期はなくともある程度の慣れはあった。
だが、だからと言ってあまりにもあまりな話だ。
早くなった鼓動とは裏腹に頭は全く働いてくれない。
起き上がった姿勢のまま、征士は呆然とするしかなかった。
「…………………。………………………?」
だが何かが聞こえる気がする。
混乱して気付かなかったが、何やら美味しそうな匂いも。
「……………?」
若しかして。
そう思いながら征士はベッドから降りると、ゆっくりとした足取りながらも微妙に縺れさせて寝室を出た。
リビングに入ると、既にそこはカーテンが開け放たれて光が差し込んでいた。
そして部屋中を美味しそうな匂いが満たしている。
「おう、おはよ」
不意に当麻の声が聞こえて、征士は音がしそうな勢いで台所を振り返った。
「と、…うま」
「”おはよう”」
驚いて名を呼ぶと、悪戯が成功した子供のように笑いながらも当麻が挨拶を繰り返す。
征士も慌てて同じように挨拶を返した。
すると当麻がくすくすと笑いながら、「驚いた?」と聞いてくる。
征士は素直に何度も頷く。
ピクニックに行こうと思って。
そう、当麻は言った。
段々暖かくなってきて天気も良くって、何か気分いいから、と。
車で1時間くらい行ったトコの緑地公園の広場でサンドイッチ食べよう、作ったから、と。
テーブルの上にあるのは紙製のランチボックスで、そこには既に幾つかのサンドイッチが入っている。
台所から出てきた当麻の手にあるのは、唐揚げだ。
美味しそうな匂いの正体はどうやらこれだったらしい。
「でさ、そこの公園、サイクリングコースあるんだって。自転車も貸してくれるって。な、行ってみようぜ、…って、うわぁ!」
唐揚げの乗った皿をテーブルに置いて振り返った当麻を、征士は思いっきり抱き締めた。
「え、っちょ、……せいじ…?」
「………………お前が、…」
いなくなるかと思った。
心臓が潰れるかと思った。
付き合いは長い。
相手の性格も解っている。
自分が相手のどこに惚れたかも、そしてどう思っているかも嫌というほど理解している。
つもりだった。
それでもやはり、彼が自分の傍を離れる事がこれほど怖いのだと思い知らされて、自分の執着を思い知らされて、
征士は言葉が続ける事が出来なかった。
その征士の、声に出来ない先が何となくでも解ったのか、当麻は突然の事に驚いて硬くなっていた身体からふっと力を抜くと、
征士の背をあやすように優しく撫でた。
「こうやってるのも好きだけど、俺としてはお前と出かけたいんだよなぁ」
「………ああ」
「芝生の上に座ってさ、飯食って、ぼーっとしたりしてさ」
「……そうだな」
「それで自転車乗ろう」
何て事のない日を、何て事のない事をして、特別じゃない時間を特別幸せに過ごす。
その相手は誰でもいいわけじゃないからこその、特別を。
征士が縋るような気持ちで抱いていた腕を、今度は愛しいという気持ちで強く抱きなおせば、当麻が笑い声を上げた。
「いいこと考えた。征士が乗る自転車、24インチな」
「なぜだ」
「サドルをめいっぱい上げて、それでも低くてちょっとガニマタになって自転車漕いでるお前って、何か可愛いと思うから」
それは”可愛い”じゃなくて、お前でいうところの”オモロイ”だろう。
すかさず突っ込んで言うと、バレたかと当麻がまた笑う。
その腰をぎゅうぎゅうと抱いて、お前は子供用に乗れ、と征士が言うと「えーっ!」と当麻が抗議の声を上げて、それから今度は2人同時に笑った。
*****
結局2人とも、係りの人にやんわり断られて26インチのに乗る。
当麻は何となく凄いなって言っただけのつもりが、征士には物凄く怖い思いをする事に。
お互いを理解しあっていても、たまにはこういう勘違いというか擦れ違いもあるんじゃなかろうかとか。