酔っ払い



夜の11時過ぎに、随分とご機嫌な声と共に征士が帰ってきた。


彼は今日、飲み会があると言っていた。その手の誘いに、毎回ではないが征士は参加する。
外面だけならその場凌ぎでも取り繕える当麻と違って、潔癖症の気がある征士は様々な距離感の人間が入り乱れる大人数での
酒の席が実はあまり得意ではない。
だが毎回自分は参加しませんという態度では周囲としてはとっつきにくく、仕事上でも微妙なズレや無駄を生んでしまう。
ましてや征士は伊達グループの、それも本家の人間だ。
そういう立場上、あまりに断りすぎて壁が分厚くなってしまうのは本格的に困る。
子を残すという意味での後継者ではなくとも、何れはグループを任せるつもりの祖父の意思は征士も解っている。
他のものとの意思疎通に、妙な遠慮や誤解を抱えていては話にならない。
何より一社会人としてどうなんだという思いから、負担にならない程度で参加をしていた。

が、今日のように遅くなる事は珍しい。
金曜日のノー残業デーを狙って行われる飲み会は、田舎ではない場所に会社がある事もあって、開始時間が6時半と早い。
そうなると大抵、宴の終わりは8時半から9時だ。
その時々で飲酒するか断るかバラバラのため征士の帰宅手段も変わってくるのだが、飲んで電車を使ったとしても、
遅くとも10時には既にその腕に恋人を抱き、遣い過ぎて磨り減った気力を取り戻している頃だ。

なのに、11時過ぎ。
これは珍しく二次会にも参加したかと当麻は考えたが、それでもやはり征士のあの陽気な声は本当に珍しい。

過去にも何度かは二次会にも付き合った事はある征士だが、その度に疲れを色濃く残して帰ってくる。
二次会の場所が単に店を替えただけの飲み屋ならまだいい(らしい)。
若い人間(自分だって定年間際の人間から見れば若いけれど)と行くと、カラオケに連れて行かれる事がある。
流行の歌を知らない征士は他人が歌っている歌が誰の曲なのか、音程がそれで本当にあっているのか解らないだけでもあまり楽しめていないのに、
そこで更にマイクを向けられて何か歌えと言われては本格的に困ってしまう。
当麻ほどではないが、征士もあまり歌が得意ではない。
適当に断っていつも逃げるのだが、そうやって過ごす2時間ほどは、静寂を好む征士には苦行に近い時間でしかなかった。

では征士から見て”若くない”人間と二次会へ行った場合は大丈夫かと言うと、やはりそうでもない(らしい)。
店の種類が違うだけで、その年齢の方々もカラオケを好む。バーに設置されたカラオケで「若いんだから何か流行のものとかあるだろう?」と
真っ赤な顔で言われても、困るだけなのだ。
更にもっと困るのは、相手が相手だからと変な気を遣われ、綺麗に着飾った女性が多数居る、高級なお店に連れて行かれた時だ。
あら部長さんいらして下さったの?うれしいわ。そうかい?ああそうそう彼ね私の会社の若いので。まぁ物凄く男前ですのね、さぁどうぞ。
なんて遣り取りで椅子に固定されて延々と密着される。
こういう時に素直に嬉しいと思えないあたり、姉へのささやかな恐怖心から始まった女性への苦手意識は立派なまでに育っているのだと思い、
それと同時に自分に寄り添う体温は当麻のものだけでいいという、何とも狭い世界だけで完結してしまう自分に苦笑いが漏れる征士だった。


その、征士が11時過ぎの帰宅だ。
しかも陽気な声で。
更に言うと、いつまで経ってもリビングに入ってこない。


「…………征士?」


おかしいな、と当麻が訝しんで玄関に向かうと、その場に座り込んで壁にもたれる征士がいた。
右足だけ靴を脱いでいる状態で。


「……おい、征士、……せいじ…?」


途中で寝たか?と思い声をかけると、嬉しさを隠そうともしない声で、当麻、と呼ばれた。


「あ、起きてる」


その声があまりに優しくて艶っぽくて、恥ずかしくなった当麻は簡素な言葉で返す。
耳が赤いだろうが相手は酔っ払いだ、きっと気付かないだろうと顔はそのままにして背けなかった。


「とうま、……とうま………お前は可愛いなぁ」


そう言って征士が腕を伸ばしてくるので当麻は大人しくその腕に抱かれてやる事にした。
酒のせいでいつもよりも高くなった彼の体温が心地よくて目を閉じる。
但し、流されないようにだけ気を付けながら。


「なんだよ、急に。俺の可愛さを改めて実感するような事でもあったのか?」


茶化しながら言うと、征士の体勢が抱き締めるというより縋りつくと言ったほうが正しいものになり、そのままズルズルと当麻の胸に顔を埋めてくる。
そしてそのまま声と同じように幸せそうに笑った。


「今日、愛する人の話が出たんだ」


今日、と言うのが”今日の仕事中”ではなく”今日の飲み会”を指しているんだな、と当麻は脳内で補足する。
酔っ払いの言葉はそのまま鵜呑みにしては馬鹿馬鹿しい思いをする事が多い。
敢えて口を挟むような事はせず、頷きだけ返して征士に続きを促した。


「そこで自分の妻や夫や、…それから恋人の事をみんなアレコレ言い出して…」

「へぇ」

「料理が上手いとか優しいとか、そういう自慢を始めたんだ」

「…へーぇ…」


そういう話をされると当麻としては少々肩身が狭い。
冷静に振り返らなくたって、自分が一般基準で見て”いい恋人”と呼べないことは重々承知だ。

当麻だって働いているが在宅でのものが主なのに、食事は殆ど会社勤めの征士が作る。
洗濯は家に居るからするが、掃除はと言うとこれも征士のほうがよくやっている。
恋人を置いて長期で不在になることも多いし、優しいかといわれると素っ気無い態度の方がやっぱり多い。
(これについては恥ずかしさが先に来るのは自分でも解っているが、言い訳として自分から言うのは違う気がしてならない)

これはもう自分の性分で、性格形成が終わってしまったこの年齢で改善するのは骨の折れることだ。し、するつもりがない。
征士がありのままの自分を受け入れてくれている事に甘えきっているのは解っていても、それはどうしようもないことだ。
だがこういう時、征士に対して悪いなという気持ちが少しは沸いてくる。
その時だけは、本当に少しだけだが直そうかなとも思える。
……実際、それが出来た事がないから今のままなのだけれど。


「……で?お前、それ聞いてて何でそんな嬉しそうになれるの」


居心地の悪さをまるで征士に当たるようにちょっと冷たく聞くと、征士はやっぱり嬉しそうに笑った。


「私もお前の事を自慢してきたからな」

「じまん………」


自分の長所なんてこの頭くらいだろ、と益々申し訳ない気持ちになる。
そしてそれを自慢してきたという征士が不憫になってくる。

たったそれだけの自慢しか出来ないなんて、何て可哀想な男なんだろう。


「私の恋人は朝に弱くて甘いものが大好きで大食漢で、気紛れだ、と言ってきた」


…訂正。
可哀想は可哀想でも、頭が可哀想な男なんだ。

当麻は遠い目をしてしまった。
それのどこが良いんだ。そう思わざるを得ない。自分の事なんだけど。
朝起きないし甘いものばかり食べるししかも大飯食らいで相手に合わせることがないときたら、本能でしか生きていない馬鹿者ではないか。
…自分の事なんだけど。


「……………で?」


周囲の反応が気になる。
スーパーイイ男が語る恋人は、とんだクズだ。さぞドン引いたことだろう。


「ん?」

「他の人、何て?」

「最低だなって言われた」


だろうな。
解っていても素直に同意は出来ない。
自分で思う分にはいいが、顔も知らないヤツにそう評価されるのは腹立たしいことこの上ないものだ。


「特に女子から言われまくった」


それも、だろうな。

大方その女子社員とやらは彼氏が居ないか、居たとしてももっと条件のいい男が現れたら乗り換えようという気持ちが底にあるタイプだ。
征士のグータラな恋人よりも自分の方が優れていることを暗に言いたいのだろう。

それを思って当麻が眉間に皺を寄せているのを、征士は気付かないで話を続ける。

私、毎週週末はお料理教室に通ってるんですー。
お部屋が散らかってるの、わたし、苦手でぇちょっと掃除魔なところがあるっていつも言われちゃうんですけど、コレって普通ですよネー?
朝早く起きると気分がいいですよね、あっわたしぃ相手の興味持ってるものって気になっちゃうんですぅ。

征士がこういう口調で告げたわけではないが、彼が聞いてきた彼女達の内容から、聞いた事はないがそういう音声で当麻の中で再生された。
チクショウ。
ある意味、身から出た錆だが、やっぱり気に食わない当麻は口をへの字に結んだ。
しかしそうなってくるとそれを嬉しそうに語る征士にも段々と腹が立ってくる。
何を嬉しそうに、言い寄られていた事を恋人に報告しているんだこの馬鹿は、なんて。


「……………………で?」


だから自然と声が低くなった。
そこでやっと当麻の様子がおかしい事に気付いたのか、征士は「ん?」と当麻の胸に懐いたまま首を傾げて、その顔を見る。
目が合うと、やっぱり、また笑った。


「解ってないなと思った」

「は?」


聞き返すと腕を突っ張って、征士が身体を起こす。
玄関に座り込んだまま、向き合った。


「当麻の事を、誰も彼もみんな、全く解ってないなと思った」


解ってるのは私だけだ。
そう言って誇らしげに目を輝かせる。


「寝顔が可愛いのも甘い物が大好きなのも作った料理を美味しそうに食べてくれる姿も、時折一生懸命に本音を見せてくれるのも、
全部お前の魅力なのに」


その全部、私だけしか知らなくて、全部、私だけのものなんだぞ。

途端、何故か征士の表情が曇った。
そしてまた当麻に抱きついてくる。
さっきよりも力強く、しっかりと密着するように。


「だけどどうせ、お前を実際に見たら”最低だ”と言った連中は掌を返したように、お前を欲しがるんだ」

「…………………んな事は…」

「ある。絶対に、ある。世間一般の基準なんて下らない事だと思わせてしまうんだ、お前は」


何かを恐れるような、拗ねたような言葉遣いは子供じみているくせに低い。
抱き締められた体勢の為に、その声が当麻の耳に直接聞こえてくる。

馬鹿馬鹿しい。
当麻からすればその一言に尽きる。
あんな情けない自慢をお披露目した上に聞いてるほうが恥ずかしくなるような告白を堂々としておいて、何を怖がるというのか。

こんなどうしようもない人間を好きだなんて言うのは、まぁそれなりにいるものだが、それでもこんなにも長い時間、共に過ごしてくれる
人間なんてそうそういない。
それも怒るどころか、その殆どを丸ごと受け止めてくれる。
途中で投げ出したっていいのにこんなにも優しく抱き締めてくれる人間は、征士くらいだ。
親友で仲間で、意地を張る相手で、それでみっともない感情も全部見せることが出来るのは、征士くらいなのだ。

若しも他の誰かが言い寄ってきたって、彼以外の誰かを選ぶだなんて、自分にはもう。


「…………とうま…」

「俺はお前しか選ばないって…」


あやすように背を軽く叩くと、征士が笑ったのが空気で解った。
顔を見ずとも、声を聞かずとも、そういう判断がつくほどの時間を共に過ごしてきた。
それはきっとこれからも続くものだ。


「……お前、………俺の事を可愛いって言ったけどさぁ、」


お前も何か、こういう時って可愛いよなぁ。
世界基準で見てもイイオトコだという評価を貰いそうな恋人だが、こういう可愛い面を見られるのは自分だけなんだろうなと思うと、
当麻も笑ってしまう。
きっと征士もこんな気持ちになったから、あんなにも陽気な声で帰ってきたのだろう。
そう思うと益々笑ってしまう。


「とうま…?どうした?何を笑ってるんだ?」


やっぱり顔も見てないのに、征士も当麻が笑っている事に気付いた。
こんな幸せ、あるだろうか。


「んー。お前も可愛いなぁと思って」

「私は可愛くないだろう」

「可愛いって。あー俺も幸せだなぁ」

「私は可愛くないぞ」

「可愛い。超可愛い」

「可愛くない」

「可愛いよ。お前の今の状態が可愛くなきゃ、俺も可愛くないって」

「当麻は可愛い」

「可愛くない」

「当麻が可愛くないのなら、……あぁ、そうか。当麻は綺麗なんだ」


それはお前の方こそ、そうだろう。つい当麻の眉間に皺が寄せられた。


「お前の、私に抱かれている時の顔は本当に綺麗だ、それこそ私だけのものだぞ」


どうだ羨ましいだろうと言わんばかりの征士に当麻はもう降参する事にした。
どうせ酔っ払いの言う事だ。嘘ではないだろうが、浮かれて言っているだけなんだから。
物凄く嬉しいけれど、同時に恥ずかしい思いをするのは素面のこっちだけ。
それはフェアじゃない。


「あーそうだな、お前だけのもんだな、俺は」


半ば自棄になってそう告げると、身体に回された征士の腕に更に力が篭る。


「とうま、このさきもずっと、あいしてるぞー」

「うん、俺もだよ。………ほら、征士、部屋に行って寝よう。な?」


征士の呂律が回っていない。
これは流石にベッドへ行ってもらったほうがいいだろうと当麻が声をかけた。
自分が酔い潰れた時は征士が抱きかかえてベッドへ運んでくれるのだが、その逆はしてやれない。
普段の意識がハッキリしている時なら運べない事はないだろうが、悲しいかな、こうもぐったりとされると支えきる事が当麻には無理だ。
身長に差はなくとも体重の差はある。男同士といえども、簡単にはいかない。

だから声をかけたのに、征士は笑ったまま首を横に振っている。
そう言えば左の靴をまだ履いたままだ。


「征士」

「とうま、きょうはベッドでねたくない」

「じゃあどこで寝るんだよ」


リビングのソファか、寝室の床か。
どちらも昼寝程度ならいいが、睡眠という事で考えると当麻は遠慮したい場所だ。


「ここでねよう、とうま」

「はぁ!?」


ここ、と言われると現在地は玄関だ。
家の中だけれど、寛ぐスペースではない。
それを征士は示し、相変わらず嬉しそうに笑っている。


「とうま、ここ」

「ヤだよ、ここ、冷えるし」

「くっついてねたらいい」

「床が硬いし」

「わたしを、したじきにしていいから」


ほら、と両腕を広げている征士は、どうやら本気のようだ。
いや酔っ払っているから本気かどうかは疑わしいが、兎に角今はここから動く気がないというのは本気のようだ。

さてどうしよう。

そう悩んだ当麻だが、もう何だか色んなことがどうでも良くなってくる。
仕方がないと溜息を吐くと、両腕を広げて自分を待ち構えている征士に「待ってろ」とだけ言い残して一旦寝室へ引っ込む。
手に枕と上掛けを持って玄関に戻ると、征士が待てと言われた時と同じポーズ、同じ笑顔のままでそこにいて当麻は噴出した。


「とうま、とうま」


嬉しそうに名前を呼ぶ姿が面白くて、可愛い。

枕を床に落としてシーツを投げて、それからせめて、と言って征士の上着を脱がせてベルトとネクタイを抜き取る。
それから今度こそ忘れないように左足に残った靴を脱がせて。


「よし、じゃあ寝るか」


そう言って征士の胸に飛び込むと、そのまま2人で床に倒れこんだ。




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周囲が聞いたら絶対に惚気にならない内容で惚気る征士。