フェロモン



ネェせんせー聞いて下さいよーアタシの彼氏がさぁ、ちょっとアタシがコンビニ行ってる間にアタシの下着漁っててー。
で、何してんのって言ったらぁ、何て言ったと思いますぅ?下着の匂い嗅いでたとか言うんですよ信じられなくないですかー?

と言うのを、特別講師として招かれた大学の食堂で昨日聞かされたのを当麻はふと思い出した。
あの時はちょうど空腹で、カツ丼ときつねうどん(共に通常サイズ)、それから別個でオニギリと餃子を食べている最中だった。
そこにさっきの講義でもちょっと目立っていた彼女に見つかり、「先生超大食いウケるー」と気付けば同席された時だ。
大食いってだけでウケる世の中なのか…と通常の範囲を超えた自分の食事量を棚に上げつつ彼女とそこそこに会話をしていると、
突如彼女が聞いてくれと言ってしたのが、先の会話だ。


下着の匂いねぇ。

その時はそう思って、ふーん、程度で聞いていた当麻だ。
元々他人の恋愛に興味はない。
だが勝手に話してくるものを聞きたくないと拒絶する性格でもない。
好奇心が強いのは両親からの遺伝であり、育った環境がその性質を強めたのは明らかで、それをぼんやりと記憶しておいて何かの折に
サンプルとして思い出す事はある。

そして今朝になって思い出した。


朝、いつものように素振りを終えた征士に起こされ、朝食を共にし、そして仕事に行く彼を玄関先まで見送って、いってらっしゃいのキスを強請られた。
玄関ドアが閉まった後で、来週の講義で使う写真をピックアップしようかと思ったが、その前にさっき観ていた天気予報が午後から曇りがちになると
言っていたのを思い出して、じゃあ先に洗濯を済ませようと思ってカゴを検めていた時に、思い出した。

下着の匂いを嗅いでた。

奇しくも今、手にしているのは下着だ。
それも、恋人である征士の。


「………………………下着、ねぇ…」


昨日の彼女は彼氏が下着の匂いを嗅いでいたという話をしてくれた。
嗅いで何になると怒ると、興奮する、と彼氏は幸せそうに言ったそうだ。
そして言っていた彼女も満更でもない顔をしていた。


「………そりゃ、…性器に一番近い場所だしな」


そう言って征士の下着を見る。
何の変哲もない、普通のボクサーブリーフだ。
征士は特に下着の形状に拘りは無いようだったので、基本的に当麻が選んで買っている。
ボクサーブリーフは単に当麻の好みだ。
トランクスのようにズボンの中でグチャグチャになることもなく、普通のブリーフやビキニのようにちょっと恥ずかしくもない。
デザインも豊富でお洒落に関心のある当麻には、ボクサーブリーフが一番の好みだった。
流石に派手な柄は征士が嫌がるので彼のものはシンプルなものばかりだが、それでも色にも当麻は拘っていた。

その、征士の下着だ。

性的な場所に一番近いのだから、匂いも他より強いのは当然だろう。
その匂いに対して興奮するかどうかは個人によって差はあるだろうが、恋人の匂いとなれば大抵の場合は好意的に感じる筈だ。
だから件の彼女の彼氏が、彼女の下着の匂いを嗅いで興奮すると言うのは正しい。

だが本当にそれはそうなのだろうか。
確率的にはどうなのだろうか。

下着を握り締めたまま、当麻は考えた。

自分は、どうなんだろうか。と。

だがそこでハッと我に返る。
朝から何を考えているのか。
科学的に気になるのは自分の性質だが、だからと言って朝から男の下着の匂いを嗅いで興奮する自分と言うのは正直言って、嫌だ。

本格的な変態じゃないか。
馬鹿馬鹿しいと当麻は掴んでいた征士の下着を洗濯機に放り込もうとして、


「…………………」


止まった。

気になるのだ。
一度気になるとどうしようもなくなるのが、羽柴家の人間だ。それは離婚して家を出て行った母も含めて。
だが征士の下着だ。
恋人の下着と考えると実行しそうになるが、冷静に考えて征士は男だ。
いや、征士が男だから嫌なのかと言われるとそれはちょっと違う。征士の事は好きだ。男だと解った上で恋愛をするほどに好きだ。
大体にして殆ど毎晩、組み敷かれてあられもない姿を晒していても嫌にならないほどに好きなのだ。
けれど、男の下着だぞと当麻は悩む。

男の下着だ。
自分と同じ下着だ。
サイズが違うだけだ。

それを、嗅ぐというのだろうか。
しかも、洗う前の物を。


「…………………………………」


しかし洗った物では既に匂いは薄れていて正確な結果が得られるとは言い難い。
同じ実験をするのなら、より結果の解りやすいほうが良いに決まっている。
だが何度も言うが、男の下着なのだ。

嗅ぐのか、嗅いじゃうのか、俺。

征士の下着を手に当麻の葛藤は続く。
そもそも恋人の下着の匂いを嗅いで興奮する確率を知りたくて実行するというのなら、興奮したという証明が必要になる。
ではその証明はどうやってとなると、当麻自身が身をもって行う実験なのだから本人の感覚で判断してもいいのだが、全てを自己申告に任せると
それは結果として少々頼りないものになる。
実験とする以上は誰が見ても明らかで、誰もが納得する解りやすい線引きが必要になってくる。


「………………やっぱ…勃ったら、……かな…」


呟いてから当麻は猛烈に落ち込んだ。
判定方法を考えているという事は、既に嗅ぐという行為は実行するものとしての話になっている。
誰が見ているでもないし誰に教えるでもないことだが、それでも既に自分の中で実行する意思が強くなってきている事に頭を抱えてしまう。

ホント、俺何やってんの…

そんな事を考えている間にも時間は過ぎているのだ。
午後から曇りがちになるというのだから早く洗濯を済ませて、少しでも多く日光に当てたい。
幾ら洗剤が進化しようとも太陽光に勝るものはないのだ。
消臭除菌、そしてフカフカの仕上がり。太陽光万歳なのだ。

だから、早く。


「………………………………………………」


しかし解ってるのに、手が動かない。
ちらりと時計を見ると征士を見送ってからまだ5分も経っていなかった。
人一倍頭の回転の早い当麻の考え事は、他人よりも何段階も早く進む。
本人の中では長く葛藤しているつもりだったが、実際はそうでもなかったらしい。


「…良かった」


時間を無駄にしていなかった事に当麻は安堵した。
手には下着を握り締めたまま。

本当に人は、興奮するのか否か。


「……………………………これは……実験だ…」


結果を得るための実験であって、決して俺の趣味じゃない。
そう心の中で必死に言い訳をした当麻は、誰もいない事は解っているのに周囲を見渡す。

…誰も居ない。当然の事ながら。
それを確認した当麻は征士の下着を両手でしっかりと持ち直し、好奇心と恐怖心の入り混じった真剣な眼差しを向ける。
一度二度と深呼吸をして心を落ち着ける。
鼻からも息を吐ききって、鼻腔に残っている匂いの粒子をしっかりと追い出した。

時間の制限も必要だと考えた当麻は、携帯電話のタイマー機能をセットさせる。
制限時間は3分。
この間に自分が勃起するかどうかが実験の境目と決めた。


「…………よし」


全ての準備を整えた当麻はそう呟いて、下着に鼻を近づけると同時に指の先で洗濯機の上に置いた携帯の画面に触れてタイマーをスタートさせた。



3分というのは短いようで長い。
何気なく過ごすとあっという間だが、待つと中々やってこない。
その時間を頭の隅で感じながら、当麻は殆どの神経を鼻に集中させた。

征士の匂いだ。
普段、彼からする匂いも混じっているがそれとは別で、夜に彼から匂うものも混じっている。

やっぱり通常時と性交時はちょっと匂いが違うのか…と、匂いを嗅ぎながらも当麻は冷静に考えていた。

不快な匂いではない、けれど無視できない匂い。
決して良い匂いとも言えないそれは、とても不思議な匂いだった。

その匂いに夕べのことが自然と思い出されてくる。
舌を絡めた時の音。首筋を這った舌の感触。
熱で呆けた頭でじっと眺めていた、執拗に乳首をねぶる旋毛。
濡れた口内に咥えこまれた時の熱。
自分の奥深い場所を抉る指の優しさと、そして力強く打ち付けられた雄の逞しさ。

………ヤバイ…

自分の額に薄っすらと汗が浮かんできたのが解る。
下半身も徐々に変化を感じ始める。
まだ携帯のアラームは鳴っていないという事は、制限時間の3分はまだ来ていない。
なのに、変化し始めた自分。


「………………っ」


実験結果は得られた。
けれどもう少し嗅いでいたい。
彼との幸せで濃密なあの時間の記憶に、浸っていたい。

そう思っていた当麻の背後で、


ガタ


という音がした。
瞬間に頭の芯が冷え、素早く当麻は振り返る。


「……………せい、…じ……」


そこに居たのは、先ほど見送った筈の征士だ。
当麻のいる洗面所の入り口が見える場所で、そしてその反対側の壁にピッタリと張り付いている彼の表情は驚きというより、明らかに青褪めていた。


「せ、……じ…」


見られた。
しかも手には未だに彼の下着が握り締められている。
実験に集中しすぎて彼がいつ戻ってきたのかさえ気付かなかった事を後悔してももう遅い。


「当麻、お前………」

「ち、違うんだ、征士……!俺は別に…!」


征士は結構ムッツリスケベな所があるが、同時に潔癖気味でもある。
昔に比べれば随分と緩和されたものだが、それでも今も根本的には変わっていない。
その彼が、恋人とはいえ下着の匂いを嗅ぐという行為をどう思うだろうか。

当麻も征士同様に青褪めながらも彼に必死に弁明を試みた。
ただの実験だ。そう言おうとした。
何のと言われた場合に経緯を説明するには少し時間が要るが、それでも当麻は必死に征士に聞いて欲しいと訴えた。
だが征士は青褪めたまま、口に手を当て首をゆるく横に振っている。


「征士、頼む、…聞いてくれ………!」

「…き、…聞きたくはない…!」

「征士、お願いだ!」

「お前の口から、お前の言葉で聞かされたくはない……!」

「せいじ……!」


距離を詰めることも出来ないままに、遂に征士は力なく壁伝いにその身体を落としていく。
そして絞り出すような声で言った。


「……加齢臭がしているだなんて、…お前に臭い思いをさせていただなんて、…私は自分が情けない………!」




当麻は、黙った。
と言うか、何も言えなかった。

加齢臭。征士は確かにそう言った。


「……は?」

「優しいお前のことだ、そんな筈はないと思って何日も我慢してくれていたのだろう…私自身が気付かずとも、きっと匂っていたのだろう…
それでも耐え続けたがやはり臭かったんだな…?それで、それでも本当にそうか確かめていたんだろう…?」


すまない、当麻。
征士は絞り出すように苦しそうに、言った。

完っ全に、誤解である。


「私ももう若いという歳ではなくなってきている…お前からはいつも甘くて良い匂いがしていたからいつも傍にいたが、お前はその度に
苦しい思いをしていたんだな…?すまない、すまない……とうま…」


しかし征士の謝罪は続いた。
しかも完全に自信喪失している。
これではマズイ。当麻は焦った。
誤解だ。征士は決して臭くはない。
いつも爽やかで心が落ち着く匂いがしている。
当麻は、焦った。


「ち、ちが、……違うんだ、征士……!俺、ちょっと実験してただけで…!!!」


だから一生懸命に伝えた。
征士は臭くない。いつも大好きな匂いがすると。
これは単なる実験だったと。


「…じっけん…?」

「うん……その、……恋人の下着の匂いで人は興奮するかどうかっていう……」


非常に言いにくい内容だがこの際仕方がない。
大事な恋人を傷付けたくはない。
自分の恥など、彼を傷付ける事に比べればどうという事はないのだ。
当麻は征士に素直に話し、そして結果も彼に伝えた。


「……そうなのか…?」

「うん。……その、勃起、………しました…」


征士の視線が当麻のそこに向かう。
確かにジーンズの中で窮屈そうにそこが主張していた。


「…そう、か……」

「うん」

「興奮したのか」

「うん。……それと、………ちょっと幸せな気分になった…かな」


当麻としては恥ずかしかったが、征士にいつもの優しい笑みが戻ったのは嬉しかった。



恋人を傷つけずに済んだ。
実験の結果も得られた。




失ったものといえば、ついさっきまで穿いていた下着くらいだ。

そう、加齢臭がしていたのではないと解った征士はニッコリと笑い、当麻を抱き締めると耳元で言ったのだ。
「では私にもその幸せな思いを味わわせてくれないか」と。


征士はもう会社に向かっている。
そのスーツの内ポケットにまるでハンカチのように綺麗に畳まれた当麻の、脱ぎたての下着を納めて幸せそうに会社に向かっている。




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色々な意味で馬鹿な当麻と征士の話。
征士が戻ってきたのは、忘れ物をしたからです。それ、回収したのかは謎。