まいったなぁ。
カーブに差し掛かった電車は大きく傾き、それにつられて乗車率が100パーセントを越えてるのではないかと思う車内の人間も気持ち程度で
片側に寄せられる。
どこかでスミマセンという声が聞こえた。さっきの拍子に誰かが誰かの足を踏んだようだ。
こうも密着してしまう車内ではお互い様といっても仕方がないだろうと思いながら、征士は吊革を両手でしっかりと掴んだ。
久し振りの電車通勤で、痴漢に間違われては堪ったものではない。
若し間違われても女に興味はありませんと言って自分の写真でも何でも出せばいいと、恋人の当麻は笑って言ったが実際にそれをしていいものか
どうかが解らないから征士は困ってしまう。
確かに当麻の事は一緒に暮らして何年も経つのに倦怠期が訪れる様子もないくらいに愛してはいるが、同性の恋人を不躾な興味の前に晒したくないのは
当然としても、それ以上にもし実行した場合、堂々と出てきた当麻が相手を徹底的にやり込めそうで怖いという思いもあった。
妙なところで顔も知識も広い恋人は、賢すぎる上にとても優しい。
その優しさの向く先は自分の守りたい人たちで、つまりその人たちを守るためには冷静に、冷徹に、屁理屈まで正論のように振りかざして、徹底的に
叩きのめす傾向が彼にはある。
それが命を懸けた場ならいい。
いや、確かに社会的な生き死にに関係すると言えばそうかも知れないが、だからって相手を再起不能まで追い込みそうで怖いのだ。
そういう時の恋人の顔はきっと冴え渡っていて美しいのだろうけども、その結果、彼が人から恐れられるかもしれないから、怖いのだ。
何にしてもちょっとした事で避けられる事態ならばと、征士はしっかりと両腕を上げて吊革を掴んでいた。
まいったなぁ。
なんて思いながら。
そもそも何故、征士が電車通勤をしているかというと、車がないからだ。
2人が暮らすマンションの駐車場にある事はあるが、今日は使えない。
羽柴の母が来るからだ。
来るといっても今回は遊びに来るのではなく、仕事で来日していてその空いた時間に未だに猫っ可愛がりしている息子とランチをしに出かけたいと
彼女が言い出したから、それに車を使うのだと言う。
だから征士は今日、久し振りの電車通勤をしている。
まいったなぁ。
征士は端正な顔を僅かに歪めてコッソリと溜息を吐いた。
必要以上に密着した車内では仕方がないかもしれないが、隣の女性の香水がキツ過ぎて正直、征士は鼻が曲がりそうだ。
確かに征士は元々女性に対して苦手意識が強いが、それを差し引いても匂いがキツイ。
仕事にその匂いは必要か!?と思ってしまうが、相手は見知らぬ他人だ。それもこれから仕事だ。お互いに。
自分の判断を相手に押し付けるのは良くない。
10代の頃の、四角四面で堅苦しい頃なら至りもしなかった結論だが、予測不能の恋人に魂ごと捉えられてからその性格は柔軟性を持つようになった。
譬え正論であろうとも、それが常に主張しなければならない物ではない事はもう解っている。
だが征士の今の溜息の理由は彼女ではない。
満員の電車でもない。
勿論、義母の来日でも。
吊革を掴んだまま、征士はそっと窓の外を見た。
通過した駅のホームにも人は溢れている。
その誰もがただ立っているだけだと言うのに忙しない顔をして、その場で焦っているように見えた。
時間に追われる日本人らしい光景だと、何の嫌味もなく言ったのは嘗ての大将だ。
海外での活動が主な遼は、こういう光景や、横断歩道を焦って歩き始める群れを見ると「ああ日本に帰ってきた」と安心するのだという。
それを仲間の誰もが苦笑して聞いていた。
非常に彼らしい感想だと目を細めながら。
また電車が揺れた。
ここしか足の置き場がないと思っている箇所から数歩よろついて、誰かの足を踏んだ感触があった。
征士はすぐに、向かいで座っている白髪の男性にスミマセンと詫びた。
すると彼は少しだけ目を見開いて、そして「構いませんよ」と笑ってくれた。
……日本人ではないと思われたな…
そう思って征士は少しだけ噴出しそうになってしまった。
典型的な日本家屋に生まれ、立派な日本男児として生まれた筈なのにその容姿のどこにもその要素が見当たらない。
髪の色もそうだし目の色も、そして肌だって白いものだから初対面の人間に名乗るより前に挨拶をすると、大抵驚かれる。
そして「日本語がお上手ですね」とか言われてしまうのだ。
名乗った名前さえも、征士、ではなくて、セージ、と思われる事だってある程だ。
下手をすれば冗談だと思われる事もあるのだから、征士としては少々辛くなる事が多かった。だがそれも過去の話だ。
社会人になりたての頃、会う人会う人にそう言われた悲しみを当麻に話すと、
「俺なんて宇宙人扱いだぞ」
と言われてしまい、一瞬黙って、そして笑ってしまった。
それを伸に話すと「アイツなりの上手い慰めだね」と優しく言っていた。
だが同じことを秀に話すと「あー…」と遠い目をしていたので、案外、学生時代にはそういう目で見られていたのかも知れない。
実際、当麻はそのずば抜けた知能指数のせいで同じ子供からも線を引かれ、教師達からは特別な目で見られ続けていたと言う。
その一端を、彼の特殊な色の髪が担っていたのかと思うと征士は申し訳ない気持ちになり、帰ってから当麻に詫びたのだが本人はケロっとした顔で、
「え?そんな話したっけ?」
なんて言いだす始末だ。
嘘か本当か、こうなると解らなくなってくる。
だが、だから、そういう所がいいのだ。
妙なところで拘って難しく考えすぎるのはどちらもそうだが、お互いにそういうポイントはズレている。
お陰でもっと考えろと苛立つこともなく、そして一緒に落ち込むこともない。
1人では迷うだけだったことも、2人でいれば幾つも可能性を生み出せる。
停車駅に着くと人が減って、そして同じだけ人が乗り込んでくる。
その度に足場が変わり体勢も少し変わり、だがそれでも征士は吊革を両手でしっかり掴むということだけは変えなかった。
まいったなぁ。
征士は足場の安定を求めて、もそもそと動く。
意識をその右足に向けた。
まいったなぁ。
今朝は電車での通勤だ。
車なら近い距離も、線路はぐるりと回って行くために家を出る時間もいつもより少し早めなければならなかった。
前日の夜に当麻は自分が会社まで送ると言ってくれたが、何せ朝は滅法弱いのが彼だ。
寝惚けた状態での運転に安心など出来ないし、どこで彼の好奇心が擽られるか判断がつかない。寄り道なんてされては堪ったものではない。
普段なら愛せても、通勤の時にそれは流石にやめて欲しい。
それに母親からの呼び出しがいつかかるか解らないのだ。
彼女はいつだって大雑把なスケジュールしか伝えてこない人で、酷ければ連絡なしに現れる事だって多い。
その上、当麻の母らしく好奇心旺盛でしかもいつまでも少女めいたところがある。
もしも通勤中に電話があって、征士を送っているから少し待てと言った日には、会うなり当麻がからかわれまくる事になるのだ。
だから征士は送迎の申し出を断っていた。
確かに、会社につくまでの間を恋人と一緒に過ごせるのは魅力的だったけれど。
兎に角、征士はいつもより朝早くに出る必要があった。
その征士にせめて、と言って当麻が身支度を手伝ってくれた。
新婚のようにネクタイを締めるのは不慣れなので余計に時間がかかるからと却下した彼が取り掛かったのは、何故か靴下だ。
ダイニングチェアーに征士を座らせ、ネクタイを締めている間に、まるで子供にするように靴下を履かせ始めた。
意味が解らんと思いつつも、楽しそうにする姿に征士も頬を緩め、自分も準備に取り掛かった。
が。
まいったなぁ。
征士は右足をもそもそと動かしながら、左足との僅かな感触の違いを確かめていた。
玄関先までついてきた当麻に見送られてから駅に向かって歩いている間は気付かなかったが、久々に券売機に並んでいる時に違和感を感じた。
それが何か確かめたかったが、列に人は多少はいる。そんなところで立ち止まっては迷惑千万だ。
だから征士は少しだけ違和感を我慢して切符を買い、改札をくぐり抜けてホームへと進んだ。
着いたホームは人で溢れていたが、それでも全員が扉のある位置で立っているために邪魔になることは少ない。
征士も他と同じように列に混じると、そっと右足のスラックスの裾を上げて靴下を見た。
「………?」
普通だ。
普通なのだが、何かが違う。
何の変哲もない濃紺の靴下なのに、何故か変な感じがしている。
ではおかしいのは左か?
そう思って征士は左の裾を持ち上げた。
やはり濃紺の靴下がある。
だが、違う。右の靴下と、左の靴下が違う。
「……………まいったな…」
ボソリと呟いた。
征士が通勤用にしている靴下は何枚もあり、そのどれもが無難な色合いだ。
黒に近いものから白いものまで常識的な色のそれは、普通に紳士服売り場で扱っているものだ。
だがどれも2つで1組になっている。
全ての靴下を纏めて同じブランドで買ったワケではないから、色が似ていても組み合わせが違えば多少は履き心地も違ってくるものだ。
つまり、この靴下はどちらも似ているが、それぞれ別のものだ。
しかも、よりによって。
征士はそっと溜息を吐いて、周囲を盗み見た。
誰も自分を見ていない事に安心して、もう一度、右の裾を持ち上げる。
濃紺の靴下。
それは確かに無難な濃紺の、会社に履いて行くのに何の問題もないものだが、これは間違いなく。
「…当麻のものじゃないか…」
既製品のために作られたときは全て同じ型でも、履き続けていればそれぞれの足に馴染んでくる。
だが今日、右に履いている靴下は征士の足の形には少し合っていない。
そりゃそうだ。それは当麻の靴下だ。
では左はというと、こちらは当然、征士のものだった。
今朝靴下を履かせてくれたのは当麻で、彼が間違えたのだろうか。
と考えたが、すぐに違うと気付いた。
玄関までついてきた当麻は既に着替えが済んでいた。
基本的に裸足でいる事が多いのに、その時は確かに靴下を履いていた。珍しい事に。
靴下を出して来たのは彼だ。
履かせたのも、彼だ。
だからきっと、いや、絶対。
「…………アイツの右足は私の靴下というワケか…」
一目では解らないし、目立たない箇所だ。
だがそれでも、そこに確かに自分以外の、愛しい人のものがある感触。
まいったなぁ。
征士はニヤケそうになるのを必死に堪えながら眉間に皺を寄せて、吊革を掴む手に力を込めた。
ふと見た先の線路がカーブしていたからだ。
まいったなぁ。
つい30分ほど前に別れたばかりでこれから仕事だと言うのに。
まだ今日は始まったばかりなのに。
満員の車内には沢山の人がいて、他より注視されやすい容姿だと言うのは自分でも自覚しているというのに。
「……………」
幸せに頬が緩みそうになる。
まいったなぁ。
征士はまた心でそう呟いて、自分を律しようと意識をまた窓の外に向けた。
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手袋でもいい気がしたけど、敢えて靴下で。