レジスター
英里子は半年前に埼玉の田舎の方から上京してきたばかりの大学生だ。
刺激のない土地に生まれ、都会という物に過度の憧れを持ってきた彼女の大学生活は、概ね順調なものだった。
友達も沢山出来たし授業の方も充分についていけている。
全て自分で補わなければならない1人暮らしに慣れるには少し時間がかかったけれど、今では大学と生活を両立して、バイトもこなせるほどになった。
合コンにだって何度か誘われて参加している。
そこでいつも自分の故郷が田舎だという事を思い知らされる。
何故なら友達の友達が連れてくる男の子たちはどれもこれも、お洒落でカッコ良かった。
よくよく見ると、ん?と思う顔もいるのだが、誰も彼も自分に似合う服や髪型を知っているから気にならない。
それに何より女の子との会話が巧かった。
地元の同級生を思い浮かべると、どれもこれも似合っているいないが基準ではなく、その土地でのスタンダードを選んだような髪形に、
全員揃って緩い服装。
会話となると垢抜けないというレベルでは済まないものだから、尚のこと英里子は都会の生活に胸をときめかせ続けていた。
だが英里子のときめきは、何もそんな毎日だけではない。
合コンに行くことも楽しいけれど、それでもどうしても自分の中で越えられないモノがあった。
英里子のバイト先は、チェーン店の薬局だった。
朝は10時に開店して夜の9時には閉店する店舗は、そこそこに地元の客が来る程度の店で、大忙しというのを経験したことがない。
時給はそれに見合って高額とは言えない賃金だったが、それでも英里子はその店が気に入っていた。
ふとカレンダーを見る。
今日は水曜日だ。
一番可能性の高い曜日。
そう思うだけで英里子はテンションが上がる。
水曜日といえば大学の近くの映画館がレディスデーだとかいうので、女性は1000円で映画が観られる日だ。
同じく学生の身である友人たちは、映画は出来ればその日に観に行きたいと言ってあまりバイトを入れないのだが英里子は違った。
この日はどちらかと言うとバイトに入っていたい。
何故なら、この曜日が一番、可能性が高いのだ。
入り口の自動ドアが開くたびに期待して向くのだが、今日は今のところまだその人は来ていない。
初めてその人を見たのは、英里子がバイトに入って最初の水曜日のことだった。
来店してきたその人を初めて見たとき、英里子はその人から目が離せなかった。
身長の割に細身だが決して貧相に見えない体躯と、長い手足。
小さな顔に、さり気くバランスの取れた服装。
清涼感があるのに、不思議と甘い雰囲気を漂わせて捉えどころのない姿。
何よりその人の髪は、見たこともない、綺麗な青をしていた。
都会ってこういう人がいるんだ。
そう、思った瞬間だった。
その人は店内をのんびりと歩き回ってから、目当てのものを幾つか入れたカゴを持ってレジに来た。
あれ以来、英里子はその人の来店が待ち遠しくなっていた。
「いらっしゃいませー」
物思いに耽っていた英里子は、薬剤師の声に我に返る。
「いらっしゃいませ」
そして続いて声を出しながらドアを見た。
来た。
青い髪の人だ。
今日もシンプルな格好で、相変わらずカッコイイままで。
彼がいつも買うものを英里子は覚えている。
鎮痛剤を1箱と、眠気覚ましのボトルガム。
それからお菓子を幾つかと、時々には髭剃りの替え刃。
そして。
「いらっしゃいませ。当店のポイントカードはお持ちですか?」
決まりきった台詞を言うと、高くも低くもない声で、はい、という返事が返ってくる。
何か声をかけてみようかといつも思っているのだが、出来た例がない。
そもそも真正面から目を見れたことがない。目も青いと知ったのは、彼が俯いたのを盗み見た時だ。
財布からカードを出した彼が、レジ前にある商品に気を取られている。
つられるようにそちらに視線を向けると、そこにはいつも彼が買っている眠気覚ましガムの、キャンディバージョンがあった。
それ、新製品です。辛くてビックリするくらい目が覚めますよ。
そう言って話し掛けたかったが結局言葉に出来ず、そのままレジを打ち始めた。
「これも一緒にお願い」
視界に入ってきたキャンディに、やっぱり声をかければ良かったと思ってももう遅い。
諦めてレジ作業を進めていく。
鎮痛剤。
ボトルガム。同じシリーズのキャンディ。
お菓子が3箱。どれもチョコレートがかかっているものだ。
今日は髭剃りの替え刃は要らないらしい。
そしていつも密かに英里子が気になっているもの。
軟膏薬。
それも、どう見てもお尻の、何と言うか、つまりアレだ、その、…………痔の、薬だ。
俯いたままチラリと目だけを上げる。
垂れた目尻には、特に挙動不審な様子はない。
こんなにカッコ良くても痔にはなるんだ…
妙に感心した英里子は気を取り直して10個入りのそれを、レジに通した。
半年前に見てからほぼ毎月に1度、彼は大抵水曜日に現れる。
そしていつも同じものを買っていた。
その中の1つがこの軟膏だ。
初めて見たとき、コレを購入する人自体を見たのが初めてだったので英里子はとても驚いた。
だが世の中には色んな人がいるのだ。地元で事務員をしている従姉妹も言っていた。
「案外痔って簡単になるのよ」と。
従姉妹の顔はまあまあだったが、美形でもそれは同じらしい。
こんなにもカッコイイのに、と彼を観る度に同じ感想を抱いていた。
表示された金額を読み上げ、相手が財布を触っている間にポイントカードに金額ごとに決まった数だけのスタンプを押していく。
大抵の店のポイントカードが機械で処理しているのに、英里子のバイト先の薬局は今でもスタンプ方式をとっていた。
そこにポンポンポンと、犬の肉球型のスタンプを押していって気付く。
「…ポイントがいっぱいになりましたよ」
「え?」
カードはもういっぱいだった。
溜まったポイントは、次の買い物のときに使える商品券と引き換えになり、新しいカードを手渡す事になる。
「これ、次回使えますから」
カウンターの中から出してきた割引券と新しいポイントカードを渡してから、英里子は思い出した。
「あ、そうだ。あの、…こ、このカードの裏にご住所とお名前を書いてください」
そう、溜まったカードの方は店で回収するのだが、この時に裏面に住所と名前を書いてもらわなければならない。
英里子は突然の事にどうしていいのか戸惑っていた。
ポイントカードの交換は何度か経験したことがある。だからそこではない。
青い人と話すのが、初めてだったからだ。
業務としての会話なのだが、それでもいつも以上に話している。
運が良いのか悪いのか、店内に客は少なく、レジ付近は完全に2人きりだ。
どうしていいのか解らない。
「あー……じゃあ、ペンか何か貸してもらっていい?」
緊張でまごついていると、苦笑いをして言われる。
確実に年上だろうが、笑うと途端に幼くなるその顔に英里子は余計に緊張した。
エプロンにさしているボールペンを慌てて差し出すと、ありがと、と声が返って来た。
その声さえも甘く感じてしまう、不思議な人。
細く長い指に見惚れていると、その人が名前をカードの裏に書き始める。
羽柴…
その珍しい字の並びを見た英里子は、こっそり首を傾げた。
確か羽柴といえば、学校の授業で豊臣秀吉の改名前の姓だと聞いた覚えがある。
彼はその子孫なのだろうか。だが豊臣は滅んだ一族の筈だ。
ではその関係者か何か?そう言えば、息子だか何だかが密かに生き延びていた説があるとか何とか先生が言っていたような…
そう思っているうちに、その”羽柴さん”は自分の名を書き、今度は下の段に住所を書き始めた。
「……隣の市から来てたんですか?」
思わず言っていた。
この土地で暮らしてまだ半年だが、大体の位置はわかる。
彼が書いた住所が隣の市だというのも。
「え?…あぁ、うん。まあちょっと」
すると”羽柴さん”は照れたように笑って返事をしてくれた。
英里子はそれだけでも自分の顔が赤くなったのが解った。
「実はさ、俺、自宅でプログラマーみたいな仕事してるもんだから座りっぱなしで、運動不足になりがちで…だから自宅の近くの店より
ちょっと歩けるココに来てんの」
「あ、そうなんですか。それで…」
そしてつい、視線を軟膏薬に落としてしまった。
座りっぱなしじゃ仕方が無いのは解っていても、客のプライベートだ。
しまったと思って視線を慌てて彼に戻すと、彼も真っ赤になっていた。
「あ、……う、うん。そう、…す、……座りっぱなしだから……その…」
シドロモドロになっている。
こんなデリケートな部分に塗る薬、誰だって恥ずかしいものだ。
スルーしておけば良かったと後悔した英里子だが、恥ずかしさを散らすためか”羽柴さん”は言葉を続けた。
「その、そのさ、だってこんなの買うの、近所の店じゃ恥ずかしいし…レジの人が近所に住んでたら、他で俺を見かけたときに、ああ坐薬の…って思われたら…
その、…やっぱ恥ずかしいし………」
真っ赤っかだ。首まで赤くなっている。
赤くなりすぎて目なんて潤んでいて、ちょっと可愛らしい。
だがそんな事を思っている場合ではない。
お客様に恥をかかすなんて、バイトとはいえ店員として駄目だ。
英里子も必死になった。
…テンパっていたのだ。
「そ、そうですよね!私も同じ立場ならそうしますよ!」
「そ……そうだよな?そうするよな!?」
「はい、も、もも、勿論!」
「あはは、そ、そうだよなぁ……!」
「ええ……あははっ…はは…っ」
「…………………」
「…………………」
「………あ、カード、書けました。ボールペンありがとう」
「あ、はい」
妙な間が気まずい。
英里子は俯いたが、きっと相手も視線を不自然に逸らしているのだろう。
何となく空気で解ってしまう。だから余計に気まずい。
「……………あ、じゃあ…また来ます…」
”羽柴さん”がそう言って買い物袋を手に取り、その場を離れた。
英里子も慌ててその後姿に声をかける。
「あ、ありがとうございましたー…!」
英里子は暫く放心していた。
予想外のことだったが、彼の事が少し解った。
隣の市から歩いてきていて、プログラマーの”羽柴当麻さん”。
笑うと途端に可愛くなる、……痔持ちの人。
今日の映画、断っといて良かった。
英里子はそう思うと、今度は拳を握り締めて静かに喜びを表現する。
やっぱり田舎から出てきて良かった。そう思った瞬間だった。
店を出て暫くのところを歩いている当麻の足取りは重かった。
「……………はぁあ……やっぱ覚えられてたよなぁ…」
店に入った時点でちょっとヤバイと思っていたのだ。
レジにいた女の子は高確率で見かけている気がする。
しかも自分はこんな髪の色だから人から覚えられやすい。
その上買っている物の中身が”コレ”だ。
絶対、覚えられているに違いない。当麻はそう思っていた。
”コレ”は正直、無いとキツイ時がある。
恋人の征士は優しいけれど、時々箍が外れて激しく抱かれる事もある。(自分も勿論、存分に愉しんでるけど)
そんな時は大抵、恥ずかしい箇所が傷付いてしまうのだ。
そうなると普段の生活で辛い思いをするのは、受け入れる側の当麻だ。
だから”コレ”が必要になってくる。
中に注入することも出来るし、指にとって入り口付近に塗ることも出来る、軟膏薬が。
しかしこの薬を買うのは随分と勇気の要ることだ。
周囲に向けて、私は痔です、と公表するようなものなのだから。
だから当麻は決して近所ではそれを買わなかった。
男同士でスーパーに行っているだけでもきっと何となくバレているのに、その上こんなモノを買っていては決定的すぎるではないか。
それは恥ずかしい。恥ずかしすぎて久々に鎧を身に纏って、過去のように意識を失い宇宙を漂いたくなるほどに、恥ずかしい。
(実際それをやると二度と征士に会えなくなるのでやらないけど)
だから当麻はいつも隣の市まで歩いて買いに行っていた。
そうすれば運動不足も解消されるし、気分転換にもなる。
店に入って確認したレジ係が見覚えのある店員だったのには少し焦ったが、同時に少し安心もしていた。
仮に覚えられていたとしても今まで何も言われなかったし、妙な目で見られることもなかったから店員の優しさというやつで無視してくれていると思っていた。
完全に油断していた。
だからつい、あんなタイミングで薬を見られ、恥ずかしすぎて軽く取り乱してしまった。
「あああ……絶対、不審がられた………どうしよう、また来ますとか俺、言っちゃったよ…」
重い足を引き摺りながら当麻は自宅への道のりを、ずるずると帰っていった。
*****
そして征士が帰ってきたら、今度からお前がコレ買って来い!と当たります。
下世話な話です。非常に申し訳ない。
髭剃りの替え刃は勿論、征士用です。