時間外就労
「あ、あのさ、……伊達、」
昼間に取引先へと向かった社有車が信号待ちで追突され、保険会社への連絡やその記録と社内への報告のために
予定していた仕事が捗らなかった征士は、いつものよりも遅い時間まで社内に残っていた。
社内を探せば未だ人はいるだろうが、征士のいる部屋には征士ともう1人しか残っていない。
隣の席では同期でもある同僚が同じように残業をこなしている。
その彼が不意に、恐る恐るといった風に声をかけてきた。
彼とは入社当時から割と他愛のない事も話をしてきた方だ。
きっちりとしていてやや堅物の征士と違い彼はフレンドリーな人間で、その彼が今までこんな改まって話しかけてきた事は一度もない。
それに違和感を覚えて征士はキーボードを打つ手を止めた。
「何だ」
「いや、その……何て切り出していいのか…」
「…?どうした」
「……うん、……うん、その…」
やはり歯切れが悪い。
何か話にくい事なのだろうか。
大きな悩みでも抱えているのかもしれない。
人に言えないような、…例えば家の事や人間関係であったり金銭的な事であったり、もしくは大病を患っているだとか、いや、
案外転職を考えているという内容の可能性だってある。
征士のいる会社は伊達グループの1つで、征士はそこで一から学ぶために一社員として働いているものの、いずれは祖父の後を継ぐ人間だ。
その人間に、幾ら親しいとはいえ転職の事など切り出しにくいだろう。
しかし同期として話をしたいのかも知れない。
そう(勝手に)判断した征士は椅子ごと彼のほうに向き直り、じっくりと話を聞く体勢を作った。
「どうした。話したい事があるのなら、私でよければ聞く。口外するなというのなら勿論、しない。だから安心して話してくれ」
そして精一杯、征士にしては物凄く頑張って柔らかい笑みを浮かべて促した。
仲間の前、特に当麻の前なら自然に笑える征士だが、日常では殆ど笑わない。
その征士が、物凄く頑張って微笑んだのだ。
「うん、……じゃあ…………」
傍から見れば多少口元が上がった程度の、それ以上頑張れば引き攣っているとしか受け取られないような笑みだったが、
それでも彼は同期の男の気遣いに背中を押されて意を決したのか、征士と同じように椅子ごとそちらに向き直った。
「あのな、驚かないで、…で、落ち着いて聞いて欲しいんだけど…」
「ああ」
「そ、その…別に言わなくても良いっちゃ良いんだけど…やっぱり黙ってるのも何ていうか……心苦しくて」
「気にするな。私はどんな話でも黙って受け入れる」
そう真摯に告げると漸く彼も安心したのか、表情が柔和になった。
ありがとう。そう言って深呼吸をして、それから真正面にいる征士の目を真っ直ぐに見つめる。
そして心持姿勢を正して、しっかりとした口調で言った。
「伊達の恋人って、…………………………男だったんだな」
言われた瞬間、征士は頭が真っ白になった。
恋人が男。
いや、うん、そうだ。確かにそうだ。
自分の恋人は正真正銘の男で股間には自分と同じモノがついている。
それでも自分たちはちゃんと愛し合っていて恋人同士で、毎晩同じベッドで眠るし週に何度かはそこで濃密に過ごす事もある。
「…………その、……ああ、いや…」
今度は征士が歯切れ悪くなってしまった。
それは2週間前だと言った。
ちょうど1ヶ月間、当麻はボストンへ行っていて暫く離れて生活をしていた。
その間、恋人命気味の征士は少々覇気に欠ける姿をしていたのだが、その恋人が帰ってくるというその日は朝から明らかに浮かれていた。
仕事上がりに空港に迎えに行く予定なのだ。
予定通り仕事を定時で切り上げ、そしてそのまま地下の駐車場にある車に乗り込んで空港に向かう。
その後は帰りに当麻の大好きな店で夕食を共にして家路に着いた。
そのときに見かけたのだと彼は言う。
それに征士は若干どころではなく狼狽えていた。
旅行用のスーツケースを持った当麻を迎えに行って、食事を共にした。
2人きりになるとそうでもないが、他人がいる場所では絶対にそういう意思を持って触れ合うことは避けている。
後ろめたい関係だからだと言われれば否定できないが、万人に受け入れられる関係ではない以上、不要な好奇の目や攻撃に晒されたくはない。
互いに、己の為というよりもその比重は相手に大きく傾いていた。
その恋人といる瞬間を、仲間や家族以外に見られた。
いや、しかし外で会うときには決めたルールがあるのだ。だから傍から見れば仲のいい友人同士にしか見えない。ハズだ。
だがそれを見た同僚は”恋人”と言った。
そういう空気がダダモレになっていたのだろうか。
いや、それはない筈だ。それならば2人の関係はとっくにバレているだろう。
では何故。
いや、何故などとは言えない。
実は征士には思い当たる節があった。
当麻が帰って来る。
それがどれほど嬉しかったことか。
好奇心に任せて自由に動く彼の性質を心の底から愛しいと思ってはいても、やはり長期の不在は寂しい。
心の底の底の、更に底の隅のほうを突付けば、行かないで欲しいという感情がぐずぐずと渦巻いているのは自覚している。
だが何物にも縛られないのが、当麻だ。
だから彼を送り出す。
少し申し訳無さそうに、そして、なるべく早く帰るから、と守れるかどうか解らない約束をして出て行く彼が、恨めしいけどやはり愛しい。
その恋人が帰って来る場所が自分の元だというのも嬉しい。
そう、その当麻が帰って来る。
嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
そしてついでに言うと、久々過ぎて欲情してしまっていた。
当麻と食事をしたのは服に鞄に靴にそして本、CDにレストランと色々な店が入っている複合型施設の一角だった。
若者というよりかは少し高い年齢層をターゲットにしていると思われるそこに並ぶ店はどれも少々値が張るものが多く、落ち着いた雰囲気の
客も多いことから普段から割と好んで利用していた。
そこで当麻の希望通り日本食の店に入り2人で向かい合って食事を取った。
久々に見る恋人は相変わらず美味しそうに次々に皿をあけていく。
その姿が愛しくて嬉しくて、征士はまた少し欲情してしまっていた。
さあ食事もしたし目当ての本も買ったし、今日は疲れたから家に帰るぞ。となり駐車場に向かう。
平日の遅い時間だったこともあり、駐車場には2人の姿以外は見られなかった。
「…当麻」
だから少し甘い声で名を呼んでしまってもいいと思った。
外だから睨まれるかと思ったが、当麻はそんな気配など見せずに征士のほうを振り返る。
「なに?」
「……おかえり」
嬉しくてそう伝えると、最初は面食らったような顔をして、それから垂れた眦を更に下げて笑みを返してくれる恋人。
「うん。ただいま」
可愛い。愛しい。
そんな感情が溢れてきて、その細い身体を抱き寄せた。
最初こそ、征士、と嗜めるように言われたが抵抗らしい抵抗はなく、それどころか自身の背に手が回されてくる。
それを了承の意と捉えた征士はゆっくりと顔を近づけて唇を重ねた。
「………ん…、」
暫く唇だけを食み合っていたが、空気を求めて開いたその箇所に舌を差し入れると相手も素直に濡れた感触を絡み合わせてくる。
欲しかったのが自分だけではないと思うと征士はとても幸せだった。
愛して愛されて、想いを向けて同じだけ、いや、それ以上の幸せを返してもらえる。
それが嬉しくて嬉しくて、仕掛けた時は少しだけと思っていたはずのキスが、随分とディープなものへと変わってしまっていた。
幾ら身体に燻る熱があろうとも此処で直接肌を求めるわけには、当然いかない。
いつ人がくるか解らないし、常識的に考えてもそれは避けるべきだとは解っていた。
だが素直に応えてくれる当麻に、征士は少々調子に乗ってしまっていた。
だからつい、当麻の腰を抱いていた手をもう少し下に滑らし、尻を、布越しとはいえ撫でてしまっていた。
いや、撫でたなどと生ぬるい。
ハッキリ言って、揉んでいた。揉みまくっていた。
もう遠慮なく言うなら、ある一箇所を重点的に、ぐいぐいとジーンズの厚い布越しに、ぐいぐいぐいぐいと指で押したりもしていた。
自分の元に帰ってきた存在を、一秒でも早く確かめたかったのかも知れない。
今は未だ直接触れる事の出来ない肌を、少しでも堪能したくて我慢が出来なかったのかもしれない。
兎に角、時折甘い声を漏らして流されそうになっていた当麻が我に返り結構本気で咎めるまで、征士はその小さな尻を愛しまくっていた。
普段、外では友人のような顔をして接している2人を恋人だと認識するとすれば、件の瞬間を見られていた可能性が高い。
礼儀だ礼節だと普段から心がけている征士ではあるが、当麻の事となるとどうも箍が外れやすい。
ルーズな彼に引っ張られているのだと女々しくも言い訳してしまいそうになるが、本当は愛しくて堪らないのだ、仕方がない。
だがそんな事を言っている場合ではない。
恋人とイチャイチャしているところを見られた。
恥ずかしい。し、当麻のあの色っぽい声を聞かれたかも知れない。
そう思うと征士の表情からは決してそうは見えずとも、心の中では「どうしたらいいんだ!」の嵐が吹き荒れていた。
「そ……その……それは、……ドコで見たのダロウカ」
さっき頑張って作った柔和な笑み(実際には下手糞な笑み)は、最早引き攣っている。
言葉は片言になり目も泳いでいた。
けれど抱えていた秘密を吐き出すことでリラックスした同僚は、そんな征士の様子には気にしなかったようだ。
「え?見たのはあの和食の美味い店の前」
「わ、………和膳か……?」
今度は征士が恐る恐る聞き返す。
雑談の最初と、完全に立場が入れ替わってしまった。
「そうそう、和膳!そこでさ、見たんだ」
恋人を迎えに行くと行っていた同僚が連れているのは何故か友人らしき男だった。
しかもその男も同僚と種類は違うものの男前だ。
類は友を呼ぶってこういうコトかよ!と心の中で悔しいー羨ましいー!なんて思っていたが何となく違和感を覚えた。
同僚は今日、恋人が帰国するといって浮かれていた。
そして空港まで迎えに行くから残業は出来ないと朝一番に言い切っていた。
という事はその時間に迎えに行って丁度かギリギリくらいなのだろう。
なのに何故、今、彼は恋人ではなく友人といるのだろうか。
飛行機が遅れると連絡があったのだろうか。それとも帰国が延期になってしまったのだろうか。
そう考えたが、その考えはすぐにまた別の違和感に引き摺られて無くなってしまう。
その友人らしき男の手には、明らかに旅行用のスーツケースがあった。
それは長身の彼には少し小さく、長期の旅行帰りというわけではないようだ。
が、若しも、若しもだ。彼が暫く海外で”生活”をしていたとしたら。
急ぎではない荷物は全て送っているとしたら。
そう、手荷物としては身の回り品や必要なものだけ詰めればそれで充分だ。
という事は同僚の友人というのはある一定以上の期間、自宅ではないどこかで生活をしていた人間なのだろう。
そこまで考えて彼はまたある事に気付いた。
目の前にずっとあったのに何故か自然すぎて気付かなかったことだ。
生粋の日本人の癖に日本人に見えない容姿の同僚も大概不思議だったが、その友人は鮮やかなまでの青い髪をしていた。
繊細そうな横顔を盗み見ると、目も青い。
雰囲気までも清涼な青を思わせる人物だ。
そこで途端にひらめいた。
そう、そう言えば同僚が車を買い換えた時、恋人と色のことで揉めたと聞いている。
結局は自分の意見を通して選んだ、と。
その色が青だった。
内装まで青い車に色んな意味で感心してしまったが、よくよく見ると彼の持ち物は大抵青か緑だ。
それに女子社員も言っていたではないか。
幼児向けのキャラクターの青い髪の子供のグッズに何故か興味を引かれていた、と。
だから彼の中で同僚である伊達征士というのは、無類の青好きだというイメージが強かった。
だが本当はどうなのだろうか。
恋人を迎えに行った同僚。
海外から帰国するというその恋人。
何故かそんな日に同僚と一緒にいる友人らしき人物。
小さ目のスーツケース。
青い髪に青い目。
そして青い車に乗る同僚。
本当は、どうなのだろうか。
どう、なのだろうか。
恋人がいるとは聞いていたからてっきり”彼女”だと思っていたが、それで合っていたのだろうか、どうなのだろうか。
いや、目の前にある事が全てなのだろう。
「だからさ、俺、あの人が伊達の恋人だろうなって思ったんだけど……当たり?」
本当の事を聞かれて否定する征士ではない。
彼に恋人として触れ合っている瞬間を見られたわけではないと知ると、一気に肩の力が抜けたものの素直に頷いて答えた。
しかしすぐにある疑問がわいてくる。
「………その」
「ん?」
「……いや、………私のほうこそ何と言って良いのか解らんのだが……。気持ち悪いと、…思わなかったのか?」
その事実に気付いてから2週間、彼は何も言わずに隣に座り続けている。
口数が多くない征士だが、彼の事は好ましい人間の1人だと思っている。
その彼が、正直にどういう気持ちなのか知りたくなった。
「気持ち悪い?」
だが彼はよく解らないという顔で首を傾げた。
「…ああ。男同士だぞ?」
「あー、そういう事」
具体的に聞いてみると漸く合点がいったのか彼は古典的にも手を叩いている。
妙に笑顔の彼を征士は黙って見守っていた。
「いやー……気持ち悪い、かぁ……んー、思わなかったな。て言うか考えてもみなかった」
「……そうなのか?」
「うん。だってさ、伊達もその恋人も何か…何て言うんだろ………自然すぎて?似合いすぎて?まーよく解んないけど、そういう感じだったからさ、
俺としては別に何も。寧ろ俺が知っちゃってどうしよう!ってなった」
「何故」
「だって正直さ、まー結構デリケートな問題だろ?」
「まあな」
「人に言いふらせないし、でも俺知っちゃったし。最初は黙ってる方がいいんだろうなって思ったんだけど、抱えきれなくなってきたってのもあるし、」
それに、と一度言葉を区切ると、彼は真剣な表情になった。
「俺はさ、受け入れてやる。って言うと何か上からな物言いだけど、その…味方っていうか、兎に角、お前らの事を受け入れてるぞって伝えたくって」
そう言ってまた笑顔になる彼に征士は素直に感謝の言葉を伝えて、そしてまたそれぞれに何となく己の仕事に戻っていった。
*****
何となく、やんわりとでも受け入れてくれる他人。