犬も食いやしねえ
風呂から上がった征士はそのまま髪を丁寧に乾かしてから、リビングに足を踏み入れた。
先に風呂を済ませた当麻が1人掛けのソファに座ってテレビを見ている。
ニュースは今日の野球の結果を流していた。
「勝ったのか?」
背後に近付いて尋ねると、負けた、と短い言葉が返って来たがそこまで機嫌が悪くはないようだ。
画面に映っている順位表では、彼の贔屓チームの名が、一番嫌っているチームよりはまだ上位にあった。
それを確認すると画面はすぐに切り替わり今日の特集コーナーに入っていく。
然程興味を引かない内容を征士が何とはなしに見ていると、当麻がソファから立ち上がった。
「座る?」
「ああ」
深緑の座面に征士が腰を下ろすと、さも当然のように当麻がその膝に座ってくる。
「お前、ちょっと湿ってるじゃん」
「そりゃ風呂を出たばかりなんだから当たり前だろう」
自分から乗っておいて苦情を入れてくる当麻の髪も肌も、既に乾いてさらりとした感触をしていた。
それに身体の奥のほうで熱が燻り始める。
「当麻…」
耳元で囁かれた声に含まれた艶を感じ取ったのか、当麻が僅かに身じろいだ。
だが否の言葉が返って来ないあたり、彼もその気があるのだろう。
「……明日早くないのかよ」
「誰かと違って私は寝坊はせん性質だ」
誰かって誰だよ、と言いながら振り返った当麻の表情にも否定の色は見えない。
身体をずらして慎重に体勢を変える。
征士が当麻の腰に手を回すと、当麻の腕は征士の首に絡みついた。
ゆっくりと顔を寄せ合って、息がかかるほどに唇を近づけるとどちらからともなく目を閉じた。
ピンポーン。
だが完全に重なる前に鳴り響いた呼び鈴に、邪魔をされる。
「……………」
「……………」
無粋な来訪者め。
それは恐らく同時に思ったことだった。
暫く間を置いてもう一度呼び鈴が鳴り響く。
「…………こんな時間に人ん家訪ねようって奴にロクな奴はいねぇ」
その当麻の意見に無言で同意した征士は再び腰に回した腕に力を込める。
当麻ももう一度目を閉じて征士に顔を寄せていった。
ピンポーン。ピンポーン。ピンポーンピンポーンピンポーン。
「………………」
「………………」
だが来訪者も諦めないらしい。
2人が暮らすマンションはオートロック式だから、きっと1階に備え付けられたパネルでこの部屋の数字と、「呼」と書かれたボタンを連打しているのだろう。
耳障りでもないが爽やかとも言えない機械音は間断なく鳴り響いた。
ピンポーンピンポーンピンポーン。
「…………う、…っるせぇ…!」
こういう時に先にキレるのは当麻だ。
征士も腹を立てていたが、彼に比べればもう少しは我慢できた。
せめてあと2回分くらいは。
兎に角ドスドスと足を踏み鳴らしながら当麻がモニターに近付く。
1階のシステムにはライトを搭載してあるから、夜でも相手の顔はこちらからは良く見えるのだ。
明らかに不機嫌なオーラを発しながら画面を覗き込んだ当麻が一瞬だけ固まって、そして何故か壁に額をくっつけた。
どうやら脱力しているらしい。
その間も呼び鈴は鳴り続けている。
「……当麻?」
理由は解らないがそれを不安に思って征士が恐る恐る声をかけるも、反応はない。
仕方なく征士もソファから立ち上がり、当麻の背後に立って画面を覗き込んだ。
「…これは……」
征士もそこで言葉を失った。
「家出してきた!」
そう言ったのは当麻の母だった。
画面を覗き込んだ先にいた彼女は、口をへの字にきつく結んで、今にも泣きそうな顔で必死にボタンを連打している最中だった。
脱力して何も出来ない息子に代わってその恋人が対応し、ロックを解除すると彼女は一直線にこの家に入ってきた。
そして、家出してきた、と鼻息荒く言うのだが。
「……母さん」
「なによ」
「確認したいんだけど、家出、したの?」
「そうよ!」
「俺の記憶が正しかったら母さんの今の家ってマンハッタン島にあったような気がするんだけど」
「そうよ、楽しいわよニューヨーク!」
「うん、そうだね。で、家出、してきたんだよな?」
「そう言ってるじゃない」
「………母さんって再婚したの?」
「まさか」
「じゃあ恋人と同棲してるとか?」
「まさか!」
「……家出だよな?」
「何回も言わせないで!」
ダイニングチェアーに座った当麻はコメカミを押さえた。
征士はどうしていいのか解らないので一切口を挟まない。
「いちいち日本まで家出してきたのかよ…つーか、誰も居ない家から出たら、そりゃただの留守宅だろ」
「誰が海外から来たって言ったのよ」
「じゃあドコ。まさか…大阪の羽柴の家?」
父親も不在がちなため殆ど家には誰もおらず、偶にハウスキーパーに入ってもらっている現状だが、大阪には確かにまだ羽柴家はある。
確かにあの家は彼女にとっても家と呼べなくもないが、正式には既に家族ではない。
「大阪から来てたら移動してる間にママだって冷静になれます!」
それはどうだか…と息子はまたコメカミを押さえた。言って話が逸れると厄介なので我慢した結果だ。
「じゃあさ、ドコから」
「横浜」
「横浜の、ドコ」
「ホテル」
ホテルからでも家出と言えるんだろうかと征士は考えた。
…だけで、彼も声には出さなかった。この親子の会話に口を挟むというのは結構勇気がいるものだ。
「ホテルからだったら益々意味わかんねぇんだけど」
「だからホテルで喧嘩したから家出してきたの!」
「それ、家出じゃネーよ!つーか誰と喧嘩してきたんだよ!」
「源一郎君に決まってるでしょ!!!」
「げん…っ……!……親父!?」
ヒートアップしてきた親子は声が大きくなって来ている。
「親父、お、親父、いつ日本に帰ってきたんだよ!?」
そう、当麻の父も今は確かドイツにいたハズだ。
帰国はもう少し先だとか言っていたはずなのに。
「源一郎君は、何でも発表会があるとかでそれに出席するって言って帰国してんの!」
「俺は初耳だよ!…まぁそれはいいや、それより母さんは何でいるの?」
溜息1つ吐いて息子は落ち着こうとしているらしい。
「源一郎君とデートしようと思って帰国したに決まってるでしょ!」
決まってんのかよ……。
当麻の形のいい額がダイニングテーブルの上に落ちた。
それがゴツリといい音を立てるのを、征士はただ見守った。
「……あんたら、離婚してたよね…」
「何よ、離婚したら顔も合わせちゃいけないって言うの?」
「そうは言わないけど、もうちょっとお互いの立場を冷静に考えろよ…どういう立ち位置だと思ってんだよ自分たちの事を」
「”当麻君のパパとママ”。で今は恋人」
「30超えた息子に向かって、パパとかママとか言うの、いい加減やめろよ!」
一度落ち着きを取り戻したかに見えた息子は、やはり無理矢理押さえ込んだだけだったんだろう。再びヒートアップしてしまう。
このままではどうにもならないと、征士は遂に口を挟む気になったらしい。湯飲みを一旦テーブルに置いた。
「あの、では。…喧嘩の原い」
ピンポーン。
「…………………」
「…………………」
「…………………」
征士と当麻は顔を見合わせると、ほぼ同時に溜息を吐いた。
「母さん、こんな時間に訪ねたら当麻にも伊達君にも迷惑だろう」
次の来訪者は羽柴源一郎だった。
息子に言わせると狂っているだのマッドだの散々な言われようだが、征士は常々そうは思わない。
こうして元妻を嗜めているのだ、少なくとも彼女よりは常識は持ち合わせているのだろう。
「母さん」
「……………」
懸命に話しかけるが、彼女はつんと顔をそらしたまま元夫のほうを見ようともしない。
離婚した、という事実を考えれば絵的に間違えてはないような気がする光景だ。
「返事くらいしろよ、母さん。大人げねえなあ」
息子も呆れ返っている。
「先にアタシの意見聞かなかったの、源一郎君なんだからねっ」
漸く口を開いた彼女は、それでも彼のほうを向かず息子のほうを向いたままだ。
「あれは意見ではないだろう。意見だとしても食い違いだ」
「…………」
「…母さん、」
「食い違いじゃなくて、思い違いだってパパに言って」
「言える距離だし聞こえる距離なんだから自分で言えよ」
「ふーん、だ!」
もう50を超えている筈の彼女は、未だ少女めいた所がある。
仕草や表情だけでなく、実際見た目も若いのだから見苦しくはない。
だがそれに振り回されている元夫と息子は、苦しいだろう。
「あの、お、……お義父さん」
「な、んだね」
この2人の間のこういった遣り取りはどれだけ繰り返してもぎこちない。
呼びかける側も、呼ばれる側も、どちらも何だか不器用だ。
「喧嘩の原因というのは、何なんでしょうか」
根本的な部分からの解決を図ろうと征士が尋ねると、当麻の父は妙に入っていた肩の力を抜き、淹れられたお茶をやっと一口飲んだ。
「原因といっても、つまらん事なんだが…」
「つまらないなら、引いてくれてもいいじゃない!」
「母さん、ちょっと黙ろうな。……で、何が原因って?」
「……当麻が」
「俺?」
「ああ、当麻が、最初に喋った言葉が何だったかという話になってな」
「……はぁ?」
「当麻君、ママって言ったわよね!?」
「いや、ママじゃない。ママは2回目だ。最初はアンマンと言った」
「言ってない!子供があんまんなんて言うわけないじゃない!」
「だが実際言い易い言葉だろう」
「言い易いだけで言ったら、あーとかうーも入ってくるじゃない!」
「そうではない、当麻はアンマンと言った。現にあのとき、私はアンマンを食べていたんだ、それを見て言ったんだろう」
「当麻君がいて、源一郎君がいて、その後ろにアタシいたもん!当麻君、アタシ見てたもん!ねぇ!?」
「いや、ねぇって言われても…」
幾ら当麻が天才だからと言って赤ん坊の頃の記憶なんてあるワケがない。
そんな事で喧嘩されても、そしてそんな事で同意を求められても困る。
「もう何でもいいからさ、兎に角続きはホテル帰ってやってくれよ」
正直、征士とさっきの続きをしたい当麻としてはどうでもいいから帰ってほしくて堪らない。
征士は何も言わないが、礼儀に煩い彼にしては珍しくあまり長居して欲しそうではない雰囲気を醸し出しているので、気持ちは同じだろう。
「イヤ!」
だが母は動かない。意地っ張りなのだ。
「イヤ!じゃねーよ!親父もなんか言えよ!」
「母さん、帰ろう」
「絶対、イヤ!」
「っもー………親父、先に帰っとく?後で母さん帰らせるし」
「いや、私は母さんと一緒に帰る」
「あぁ!?」
「その為に迎えに来たんだ。何が悪い」
悪い。悪すぎる。
息子とその恋人(男だけど…)の家に来て、何が悪いとしたら、そりゃこれからゴニョゴニョと色々あるからだろうに。
「おい、征士。どうするよ」
当麻は困り果てて恋人を頼ってみた。
その恋人は暫く考え込んだ後、凛とした目でその場にいる全員を見渡した。
「では客間に布団を敷きましょう。……2組でいいですか?」
「で、今度はキミが家出してきたって言うのかい」
人の家にきておいて、ソファにふんぞり返っている嘗ての仲間を見て伸はウンザリと吐き捨てるように言った。
パジャマと言うよりルームウェアという出で立ちの当麻は、征士の言葉に遂にブチ切れ、車のキーと財布を手にそのまま飛び出して、
そして伸の家に転がり込んできた。
「だってアイツ、俺の意見解っておきながら親に媚売りやがったんだぜ…!」
恋人が自分の方についてくれなかった事が腹立たしくて仕方ないのだろう。
ふんぞり返っているくせに、その表情は明らかに拗ねている。
「そりゃ征士の立場は微妙だからね、その場合」
恋人とその両親と自分。
世間での様式に置き換えると、嫁と嫁の実家の板ばさみだ。
嫁いだ姉が、一度だけ実家に帰ってきた事があったのを伸は思い出す。
姑と喧嘩になり、そして夫が間に入ったがどうにもならなかった為に勢いで飛び出してしまったのだ。
だが後から聞いたがあの場合、姉は義母を思い、そして義母も姉を思った結果の、単なる優しさ故の擦れ違いだ。
今回の仲間には当て嵌まらない考え方だったと思いなおす。
それよりも、と伸は時計を見た。
もうすぐ終電もなくなりそうな時間だ。
車は当麻が乗ってきている。
さあ、征士はどうやって恋人を迎えに来るのかな。
伸はそんな風に考えながら、一先ず膝を抱えてしまった仲間に何か温かいものでも与えて、少しでも気を落ち着かせようかなとキッチンに立った。
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多分、当麻が言ったのは「マンマ(ご飯)」だと思うんです。