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征士と当麻は、ちょっとした喧嘩状態だ。
ここ数日、征士は仕事が忙しく毎日午前を回ってからの帰宅続きだ。
そして翌朝もいつもの出社時間より随分早く会社に向かう日が続いていた。
夜遅い為にあまり会話も出来ないし、朝は低血圧の当麻が幾ら頑張って起きても意識がハッキリする頃には征士は既に玄関に立っている。
付き合ってから随分と長い時間を共にしてきた2人だから、最初のうちはそれでも我慢は出来た。
だがその状態が既に2週間続いている。
どちらかが不在(主に当麻が海外へ行ってしまった場合)でもまだ我慢は出来た。
だが違う。そうではない。
同じ家で生活し、同じ食卓につき、そして同じベッドで眠っているのだ。
なのに、どれもこれも満足な時間を取れない。
眠ることが大好きな当麻が征士に合わせて夜眠らずに待っているし、朝もなるべく早く起きている。
しかも疲れて帰ってくる彼の為に、家事を珍しい事に全てこなし、彼が帰れば後は食事をして眠るだけという状態で待ってくれている。
上げ膳据え膳の生活だ。
料理だって征士の好物ばかりだ。
そんな当麻を少しでも眠らせてやりたくて征士は夜は我慢していた。
当麻も疲れている征士を少しでも長く休ませてやりたくて我慢していた。
互いが互いを思いやり、少しずつ我慢をする。素晴しい精神ではある。
だがハッキリ言って、欲求不満だった。
昨日、征士の妹の皐月が泊まりで上京してきた。
買い物がしたいのだと言った彼女のこの予定は、もう1ヶ月以上前から決まっていたことだ。
昼間は当麻がそれに付き合い、夜は兄とその恋人の家に泊まり、翌日も少し買い物をしてから帰ると決まっていた。
昨日、予定通り彼女は東京駅に着いた。
当麻もソレを同じく予定通りに迎えに行き、2人でオンナノコの喜びそうな店や、遊べるところを様々に回った。
一人っ子の当麻は人懐っこい皐月を実の妹のように可愛がり、そして実の妹ではないから大いに甘やかした。
彼女もよほど楽しかったのだろう。
妹も来ている事から、ここ数日にしては珍しく、征士がまだ日付の変わらないうちに帰宅した。
3人で食卓を囲み、恋人と妹が作ったという食事に胸を熱くしていた征士に、ビシャリと投げつけられた聞き捨てならない言葉。
「今日ね、当麻さんと買い物してたらさ、お店の人に彼氏ですかカッコイイですねって言われたんだよー。ね、当麻さん」
そう言って妹がキラキラとした目で恋人を見つめていた。
前髪で隠れ気味な征士の右目がすうっと細められた事に彼女は気付いていない。
「で、当麻さんったら、いいやお兄ちゃんですって言ってさ」
「俺、1回は言ってみたかったんだよなぁ、お兄ちゃんです、って」
「あの時の店員さん、絶対当麻さんのこと気に入ってたよ。そういう目、してたもん」
「えー、ないない。兄妹で仲イイですねーって言いながら、アレはちょっと引いてた目だって」
「違うってー。当麻さん、鈍感だって言われない?」
「俺、昔モテてたの知らないだろ、皐月ちゃん。アレは兄妹で腕組んで何コイツらっていう目だったって」
「違うよ、アレは妹ウゼーっていう目」
きゃっきゃと楽しげに交わされる会話に、征士は置いてけぼりだ。
いやそもそも付いて行く気がない。
寧ろ彼の中にはやり場のない感情が燻り始めていた。
2人だけの記憶を楽しげに交わす恋人と妹。
しかも腕を組んで買い物をしていたと言われては聞き捨てならない。
同性相手の恋愛をしている自分たちは人目のある場所では互いに触れられないというのに、妹は容易く恋人の腕を取ったのだ。
幾ら実の妹といえど見過ごせない。…のは、日頃の疲れのせいなのか欲求不満のせいなのか。
食事も終わり風呂も済ませ、いよいよ眠る時間になった。
来客用の布団をリビング横にある4畳半の和室風のスペースに敷き、それが皐月の今夜の寝床になった。
征士と当麻はいつものように2人の寝室へ入ったが、ドアを閉めた途端、征士が随分と情熱的なキスを仕掛けてきた。
それに焦ったのは当麻だ。
今夜は自分たち以外の人間が同じ家にいる。
淡白な当麻でさえ欲求不満だというのに、それをこんな風に煽られては堪ったものではない。
なのに征士は力に物を言わせて当麻をベッドへ押し倒し、着ているパジャマを無理に剥ぎ取ろうとしてくる。
目には明らかに情欲と、僅かばかりの怒りを湛えて。
「っちょ、……やだって、…征士!」
正直、欲しい。だが今夜ばかりは駄目だ。
今のこの声だって聞かれてはならないから極力押さえている。
力では敵わない事は解っているが、それでも抵抗しなければ済し崩しになってしまう。それだけは避けたかった。
「征士…っ!」
「お前の恋人は誰だ、お前は誰のものだ…!」
「バカか!今日は皐月ちゃんがいるんだぞ!?お前、……ヤメロよ!」
声を押し殺した問答は続き、そして攻防も続いた。
結果としては、結局昨晩も互いにお預けを喰らっただけでなく、結論の出ない口論の末に互いに背を向けて眠り、気まずい朝を迎えた。
一応当麻も皐月と一緒に征士を見送りに玄関まで出たがその顔に笑みはなかった。
それは征士も同じで、当麻と目を合わせようともしない。
正確に言えばどちらも腹を立てているのではなく、未消化の欲求が燻ったままなのだ、下手に顔を見れないというのが本当のところ。
だがそれでも口を利いていないそれは、喧嘩に近い感情を伴っているのも事実。
昼になり皐月と外に出、そして東京駅まで彼女を送ってから帰宅すれば、携帯のディスプレイの時間は既に3時を回っている。
電池残量が心許ないソレを充電しようとコンセントを探すが、その前に喉を潤そうとコップにジュースを注いだ。
この時間はいつもなら食事の準備をしようかどうしようか考える頃だが、どうせ今日も征士の帰宅は遅い。
なら昼寝もいいだろうと当麻はソファに横になった。
ベッドに行かないのは、昨夜の気まずい空気が残っていそうな気がしたからだ。
食材を切る音が聞こえる。
そしていい匂いも。味噌汁でも作っているのだろうか。
当麻が薄く目を開けると、外は既に暗く、時計は7時を指していた。
自分以外の人間の気配を感じ、それが征士のものだとすぐに気付いた当麻は、どう声をかけようかと思案する。
皐月が無事帰宅したことだろうか、昨夜の事を謝るべきだろうか。それとも、素直に欲求不満だと伝えようか。
悩んでいると、当麻が起きた事に気付いた征士から声をかけてきた。
「起きたのか、当麻」
優しく微笑んでいる彼の手には山芋とおろし金だ。
どうやら早く帰れた彼は機嫌がいいらしい。
「うん……ごめん、寝てた」
「皐月に付き合ってあちこち出ていたのだろう?普段、出不精のお前だ。疲れただろう。構わん、気にするな」
「でも征士のほうが疲れてるのに…」
「気にするなと言っている。それより当麻、鉄火丼を作ろうと思うのだが…」
「とろろかけて?イイネ」
征士の手元を見ながら言うと、彼が微笑んだまま頷いた。
それだけで幸せな気持ちになった当麻もつられて笑い、手伝おうと身体を起こそうとした。
が、うまく行かない。
「…?」
不思議に思って首をめぐらし自分の脚を見ると、何故かソファに縛り付けられている。
何の悪戯かと解こうとしたが、今度は手が動かない。
視界に入れる事は出来ないが、感触からして脚と同じように縛り付けられているだろう事は判った。
それも、ご丁寧に素っ裸にされて。
「…征士…?」
不安を覚えて恋人を見ると、彼は変わらずに山芋とおろし金を持ったまま微笑んでいる。
どういう悪戯だろうか、いや、悪戯と思っていいのだろうか。
「せいじ、これ、何の真似だよ」
「だから鉄火丼を作ると言っているだろう?」
「お前、でもコレ…!」
「いい眺めだぞ、当麻」
ゆっくりと歩み寄ってくる彼が怖い。
同じ笑顔なのに、いつもの優しい彼とはかけ離れている事が当麻を更に怯えさせる。
「征士、ヤだ…いやだ、征士、何するつもりだよ…!」
「だから鉄火丼を作ると言っているだろう。私も流石に腹が減ってな。すぐに食べられるものにした」
「じゃあ俺も手伝うから…!なあ、コレ、解いてくれよ!」
「解く?何故」
「だから、俺、手伝うからって言ってんじゃんか!」
涙目で訴えるが、恋人は相変わらず表情を崩さず、遂に当麻の傍に来てしまった。
自分を見下ろす彼の目に、狂気混じりの欲を見た気がして、当麻は必死に抵抗を試みる。
「征士、聞いてんのかよ!ヤだって!お前、本当、何するんだよ!!」
必死に叫んだ当麻の腹に、冷たくぬめった感触が落ちてきた。
征士が手にしていたおろし金で山芋を摩り下ろし、恋人の腹にそれを垂らし始めていたせいだ。
「…征士…!」
「少し気持ち悪いかもしれんが、すぐに気にならんようにしてやる」
そう言って舌なめずりをする姿さえ美しい、美貌の恋人。
いつもなら見惚れるその容貌も、今は恐怖の対象でしかない。
徐々に自分の腹に溜まり、そしてぬるりと流れ落ちていく白い感触に、身体の何処か奥の方が熱くなる。
こんな事で感じたくはないのに満たされない日が続いた身体はいとも容易く快楽を求め始めてしまう。
それが悔しくて、そして普通に触れて欲しいのに彼の優しい手は与えてもらえない事が悲しくて、当麻の目から涙が零れた。
「征士、こんなんヤだって……!征士!!…せいじ!!!」
「せい………じって、アレ?」
目を開けると外が赤くなっている。
どうやら夕方らしい。という事は帰宅してからまだ2時間かそこらしか経っていない。
「……え、夢…?」
なんて夢を見たのだろうか。
妙にリアルな感触だったと思い、身を起こすと左手首に携帯の充電器から伸びるコードが絡まっていた。
そう言えば携帯の充電が残り少なかったのでコンセントに繋いだ気がしなくもない。
それにしてもよほど眠かったのだろうか、ソファから床に落ちた事にも気付かず眠り続けた自分を、他人事のように呆れてしまう。
しかも落ちた挙句、寝返りを打ったのだろう。
身体がローテーブルにぶつかり、その衝撃でジュースが残ったままだったコップが倒れ、それがテーブルから滴り自分の腹に落ちてきたようだ。
シャツが濡れている。
「………………………さいあく…」
欲求不満過ぎるだろ、俺。
ソファから落ちても起きないくせに、現実のちょっとした感触であんな夢を見るだなんてどうかしている。
居た堪れなくなって頭を抱えた当麻の耳に、玄関の鍵が開く音が聞こえた。
「ただいま」
暫くしてリビングに入ってきた恋人の声はいつも通りだ。
「お帰り。今日は早かったんだな」
「ああ。やっと片付いたので、今日は定時で上がらせてもらった」
そう言って嬉しそうに微笑む彼は夢の中と違い、いつもの優しい姿だ。
帰りに買い物もしてきたのだろう、ガサリと音を立ててビニール袋がテーブルに置かれた。
本当に、いつも通りの征士だ。
それに当麻は心底安堵して、口元を緩める。
俺、欲求不満みたい。
言ってやりたい言葉はあるが、それはいつ言うのが一番効果的だろうか。
考えるだけで楽しくなってきて笑みを深くする当麻を不思議そうに見ながら、それでも機嫌がいい事だけは解って征士の笑みも深くなる。
「ああ、そうだ当麻」
「んー?」
「今日はゆっくりしたいんだが…その、お前と」
「うん、俺も」
言いながら征士は上を括っていたスーパーのレジ袋を開けていく。
「だからな、今日はすぐに食べれるものにしようと思って…」
袋の中身を出しているらしいが、当麻の位置からはよく見えない。
今夜は何だろうか。
それを一緒に食べて、一緒に風呂にも入ろうか。なんて考えている。
いつ、欲求不満だって言ってやろうか。
タイミングを計っている当麻を、征士が振り返った。
「鉄火丼にしようと思うのだが、どうだ?」
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ちょっとしたホラー?みたいに。勿論、普通に鉄火丼ですよ。ちゃんと丼に盛りますよ。
そりゃあ夜はお楽しみですけどネ!