週末占い、最下位:ふたご座
仕事で過去の資料が必要となり資料室へ篭ってみれば、大量に積み上げられた段ボールは乱雑でどこに必要な年度の書類があるのかさえ判らず、
それでもやっと目当ての書類を引きずり出す事に成功すれば、今度は纏め方がグッチャグチャで結局就業時間内に予定していた所まで進めなかった。
カレンダーを見やれば、金曜日。
そう、金曜日はノー残業デーだ。(それは水曜日も)
ならば仕方がないとさっさとカバンを手に征士は席を立った。
…休日出勤か。
そう考えただけで溜息が漏れた。
征士としては休みの日は出来る限り恋人とべったりとくっついて過ごしたいが、如何せん急ぎの仕事だ。仕方あるまい。
恋人の当麻は多少放って置いてもブーブーと文句を垂れるような性格ではないので、それに関しては一言断りを入れておけばいいだろう。
そう思っていた矢先、視界の端に不穏な文字を見つけて征士は勢いよく振り返りホワイトボードを睨みつける。
「…………社内、…清掃……?」
書き込まれた明日の予定には、社内清掃の文字。
ああ嫌な予感がする…
背中に一筋汗を垂らして近くを通った総務課リーダーの女性を捕まえた。
「すいません。明日のこれは…」
「え?ああ、掃除ね」
「掃除ですね……いや、あの、いつの間に」
「前にも社内メールで送ったし、今日の夕方も送ったわよ?」
……完全に忘れていた。
いや、今日の夕方の分は仕事にかかりっきりで社内メールの確認を怠ったのは自分だ。
だがしかし。
「社内清掃と言うとその…」
珍しく歯切れの悪い征士に、彼女は何を思ったのかニッコリと笑った。
「大丈夫、業者さんが入って床から窓からぜぇんぶピッカピカにしてくれるの。だから何があっても出社は出来ないわよ」
良かったわねー。と彼女に肩を叩かれる。
征士に何より愛する恋人がいることを彼女はよっく理解してくれている人物だ。明日はゆっくり恋人と過ごせるわねと言いたいのだろう。
だがそうではない。
明日ばかりは出社して仕事がしたいのだ。
だが許してもらえないというではないか。
カバンに収まりきらなかった書類は、総務課で貰った紙袋にパンパンに詰められ、2人の愛の巣へと持ち帰られた。
のが、昨夜の出来事だった。
結局土曜日の今日に仕事を残さないように、征士は夜を徹して仕事に励んだ。
正直に言うと、恋人とベッドでイイコトがしたかったが、それでも彼は自室に篭る事を選んだ。
翌日に仕事が控えた状態で楽しむのと、全てを片付けてから後の事は何も気にせずタップリ楽しむのとどちらがいいか。
…後者だ。
彼は”好きな物は後から食べる”性格だった。(因みに当麻は”気が済むまで食べる”というちょっとズレた答えを返す)
パソコンの隅にあるデジタル表示を見れば朝の8時35分。
やっと出来上がった資料に目を通し、漸く片付いたことを実感すれば肩や背中が痛みを訴えてくる。
伸びをして固まった身体をほぐせばパキリと関節が音を立てた。
ついでに、腹も。
「……一眠りする前に、食事だな」
呟いて部屋を出ると、いい匂いが鼻先を擽った。
キッチンから食欲をそそる音も聞こえてくる。
当麻が何か作っているらしい。
リビングのテーブルが見える位置まで足を進めると、並べられた食器は2人分。
しかも1つはトレイに乗せられている事から、どうやら自分の部屋に運んでくれる予定なのだろう。
この時間、いつもなら当麻は自発的に起きては来ない時間だが、今朝は起きて、そして朝食を作ってくれているようだ。
周囲の事などお構いなしを装っているが、こういう優しさが彼にはある。それが愛しくて堪らない。
キッチンを見るとまだこちらには気付いてないらしい当麻の後姿があった。
その背に近付いて抱き締めたい気持ちになる。
食事を部屋へ運ぶ必要はない事を伝え、少しばかり甘えたい気持ちになる。
「………とう…」
思った以上に掠れてしまった声を止めたのは、当麻の鼻唄だった。
当麻は音痴だ。それは自分でも解っているのだろう。
だから人前で歌うことはない。
征士の前でしか、歌わない。
聞き苦しい歌ではあるが、征士にとってそれは彼に心を許された証の、とても心地のいいものだ。
だが、今朝は違った。
頭が痛い。
いや、決して当麻の歌が頭痛の原因ではないだろう。
昨夜は一睡もせずにパソコンと向き合っていたのだ、そのせいで頭が痛むのだ。
だがその引き金が彼の鼻唄であるのもまた事実。
ちょっと、歌をやめてもらっていいか。
そう言えばいい。何も遠慮することはない。
言えば当麻だって音痴は自覚しているのだから、きっとやめてくれるだろう。
だが言えない。
彼の音痴は父親からの愛情の結果で、それは彼ら親子の絆のようなもので、そして今はバラバラだが家族の幸せの象徴でもある。
…と思う。少なくとも、征士には。
その歌を、止めろというのか。
…言えない。だが、頭は痛い。
地味だが確実に痛い。
普段なら言いようのない幸せと満足感と、そして優越感を与えてくれる調子外れの歌が、今では地獄の調べだ。
恐らく歌っているのは「喜びの歌」だが、違う、当麻、それでは地獄の調べだ。
だが言えない。しかし頭は痛い。地獄の調べは続く。
どうして良いのか判らない征士の事など気付きもしない当麻の鼻歌は機嫌よく続けられる。
征士は悩んだ。
言うべきか、言わざるべきか。
いや、頭が痛いのだ、言ってもいいだろう。
だが若し当麻がそれを気にしてしまったら?
二度と自分の前でも歌ってくれなくなったら?
カナリヤから歌を奪うことなど出来るわけがない。
譬えそのカナリヤがこのように地獄の調べしか歌えないとしても。
だが頭が痛い。
最初はツキツキという感じだったがズキズキとした痛みに変化している。
当麻の鼻唄も終わるかと思いきや、何故か今度は「アマリリス」に変化していた。
どちらにせよ地獄の調べに変わりはないわけだが…
「……………………」
征士の背後にある時計は、まだ8時40分を示したところだ。
部屋を出てからまだ5分。
だが征士は頭痛のせいか葛藤のせいか、既にそこに1時間は立ち尽くしているような錯覚を起こし始めている。
いつの間にか握り締めていた手は汗ばんでおり、こめかみもピクピクと脈打っている気がしてならない。
そうだ、鎮痛剤だ。
そこで気が付いた。
そう、薬を飲めばいいのだ。
そう思って征士はすぐに薬箱を置いてあるサイドボードに近寄った。
足音を殺して。
当麻の機嫌のいい鼻唄を邪魔しない為の気遣いだったが、それは本来、今必要ない筈だ。
だが何故か、彼は足音を殺してリビングを進んだ。
「………………なん、…だと……」
目当ての箱を見つけ、用法・用量を確認しようと手に取ったパッケージを裏返した征士は思わず目を瞠った。
当麻が買って来た青と銀のパッケージの鎮痛剤の裏には、「空腹時の服用は避けてください」の文字。
普段あまり薬を飲まない征士はそんな事は知らなかったのだ。
食事前に飲んで、愛しい人と向かい合いながら食事を取ればいいと思っていたのだ。
だが、空腹時は、駄目。そうパッケージに告げられ征士は青ざめる。
その耳にいつの間にか「チムチムチェリー」に変わっていた恋人の鼻唄が聞こえてくる。
音痴の当麻が歌うと長調の歌は全て短調になるが、短調の歌は更に短調になるという、何と言うか説明し難い様相を見せる。
その超短調と言ってもいいような歌が耳に入り脳を震わせ更に頭痛を引き起こす。
このままでは体調に異常をきたすような気がしないでもない。
実際、征士は少しばかり吐き気を覚えてきた。
いや、何度も言うが当麻の音痴が悪いのではない。
ただ頭が痛いのだ。痛すぎて吐きそうなだけなのだ。
決して、断じて、何があっても当麻の歌が悪いのではない、…はずだ。
だがしかしそうも言ってられない。
今日はまだ土曜日で、しかもまだ朝で、つまり時間はタップリあるわけだ。
朝食を食べて少しだけ寝て、あとは昨夜から先延ばしにしていたイイコトタイムに入りたい入る予定だ入らせてもらわねば困る。
今ここで、頭痛に負け、ましてや吐いたりしたらどうなるか。
冷たいようでとても優しい彼の恋人は大人しく寝ていろと言うに決まっている。絶対に無理などさせてはくれないに決まっている。
それだけは絶対に避けたい征士だ。
そう、今だ。
今こそ立ち上がるときなのだ。
そうだ頑張れ伊達征士。
そう自分を鼓舞して、前日から仕事の為に絞りっぱなしの知恵を今度はプライベートのために絞り、どう告げるのがベストか考え始める。
立ち上がれ!
いや、ソッチが勃ち上がってどうする…!
しかし睡眠不足と頭痛と吐き気のせいだろうか、身体の危機と受け取った脳が種の保存機能を働かせたらしく、己の下肢に血が集まり始めた。
そこじゃない…!
そうではない…!
「あれ?征士、出てきてたんだな。仕事はもう片付い……………何してんのお前」
気付けばコンロの火を消し換気扇を止めた当麻が振り返って自分を見ている。
間の悪い事に。
どこか嬉しそうだった彼の表情は曇り、彼の青い目が今は自分の、その、…下半身を凝視しているのが判った。
昨夜、いつでも眠れるようにと仕事の前に風呂に入り、そして部屋着ではなくパジャマを着ていた征士の股間は微妙に盛り上がり始めている。
そこに刺さる、当麻の視線。
「いや、………その………違うんだ」
「何が違うんだよ」
お前の歌をとめようと思って自分を鼓舞したらソコが元気になりました。
などと言える訳がない。
どこもぼかし様がない、言える訳がない。
「………疲れてんの?」
「ああ…いや、……いや、違う…」
どっと汗が吹き出た。
軽蔑はされなかったが最悪のパターンかもしれない。
このままでは本当に1日寝かされて終わってしまいそうだ。
征士は必死に何か言わねばと考えた。
短い時間で必死に考えに考えて…
「疲れてない。いや、睡眠不足ではあるから、そういう意味では疲れているが」
「じゃあ飯の前に寝るか?」
少し寝れば大丈夫だと告げようとすれば、言い切る前に即座に切り返される。
だがその提案だって呑めない。
折角当麻が作ってくれた朝食を、折角向かい合って食べられるというのにこのままでは叶わなくなる。
「いや、いい」
「でも」
「いや本当に大丈夫だ」
「そうは言うけどお前、顔色悪いぞ」
そりゃ頭が痛いもので…。
いや、そうではない。
「大丈夫だ」
「マジ?」
「ああ」
「徹夜だろ?」
「…ああ」
「寝た方が良くない?」
「大丈夫だ」
「やっぱ寝ろよ」
心配そうな顔をした当麻が征士の背を押し、リビングから追い出そうとする。
行き先はどう考えたって寝室だ。
だが征士は今はそこに行きたくないのだ。
だから、
「いや、眠くないのだ……!」
と言った。必死に言った。一生懸命、言った。
…ちょっと嘘をついた。
徹夜明けだ。眠くないわけがない。でも朝食が食べたいのは本当だ。
当麻と向かい合って食べたいのはかなり本気だ。
だから、そう言った。
朝食を先に済ませたい、そう伝えたかった。
「眠く…ない?」
不思議そうに聞き返す当麻に、これまた必死に征士は首を縦に振った。
それを見た当麻の口元に優しい笑みが浮かぶ。
「…わかった」
征士が胸を撫で下ろした瞬間だ。
「お前、ハイになってるだけで本当は眠いんだよ。よし、俺が子守唄歌ってやるから寝ろ」
………………。
……………………。
…………………歌、とな。
「……………………………………いや、…それは…」
「遠慮するなって!」
「いや、しかし…その、ほら、朝食が…」
「んなモン、後で温めなおせば済むだろ?それよかお前の身体のほうが大事なんだから」
な?と優しい言葉で気遣いを見せてくれる愛しい人は、気を失いたいほど恐ろしい提案をしてくれた。
いや、実際気を失ってしまった。
その日征士は、生まれて初めて立ったまま気を失うという弁慶のような体験をしたのだった。
*****
ぼえー。