鬼の霍乱
「何か欲しいものとか、して欲しいことあるか?」
「当麻が跨ってくれればそれで…」
「よし、冗談言う気力があるなら大丈夫だな」
「…冗談だと解っているなら殴る事はないだろう…病人だぞ」
ベッドに横になったまま訴えるが当麻から返って来たのは冷たい視線だけだったので、征士は首を竦めて大人しくする事にした。
征士が風邪を引く。
頑健ではあるが彼だって勿論普通の人間なので、風邪くらいは引く。
だがそれは本当に稀な事だった。
ただ稀であるからだろうか、一度病に罹れば彼は高熱を出し、ベッドから起き上がることさえ儘ならない状態に陥る。
しかしそこは頑健だからだろう、一晩しっかり寝れば彼は充分に汗をかき、大抵の場合はそれで治ってしまう。
だから今も朝からずっとベッドに居るのだが、稀である病床に伏せる征士の姿というのは当麻からすればとても心臓に悪いのかもしれない。
あまり傍に居て風邪を引きやすい当麻にうつっては本末転倒だというのは互いに理解していて、ベッタリと彼の傍に居るわけではないが、
それでも頻繁に寝室に顔を出しては眠っている姿に安堵し、目が覚めているようなら何かと気遣いの言葉をかけていた。
最初こそ高熱にうなされ、作った粥でさえ殆ど食べられず、返事をしても、ああ、だとか、うう、だとかの呻き声との判別に難しいものばかりだったが、
昼を過ぎ、階下から下校してきた子供の声が疎らに聞こえ始める頃には随分と快方に向かったのだろう、ちょっとした要求をすれば、結果はこれだ。
「病人なら大人しく寝てろよな」
「………寝ているではないか」
「病人はそういう事要求しねーよ!」
殴る、と言っても普段より随分と手加減をしてくれてはいるが、辛いし寂しい事に変わりはない。
この家のベッドは征士が寝ているもの1つきりで、今夜当麻が同衾する事はない。
当麻本人は心配をして寝室に来客用の敷布団を持ち込んで寝るつもりなのは毎回だが、それを征士が拒むのも毎回だ。
先にも触れたが当麻は風邪を引きやすい。
普段彼が引く風邪は征士のものに比べれば随分と程度の軽いもので、そうなると頑健な征士は敷布団を用意するどころか平然と同衾してくる。
曰く、すぐ傍に居た方が異変に気付きやすいから、と。
だが立場が逆になるとそれは別だった。
何度も言うが、当麻は風邪を引きやすい。
そんな彼に、征士が引いてしまうような風邪をうつすワケにはいかない。
だから今夜は、当麻は散らかった自室を少しばかり片付け、そこに布団を敷いて眠る。
それが、征士にとって辛くない筈がないし寂しくない筈がない。
本当なら片時も離したくないほどに愛しい相手を抱き締めて眠ることさえ叶わないのだ。
病に罹ったときの何が辛いかと問われれば、征士はその1つとして迷わずそう答えるだろう。
「まぁ今朝に比べたら随分熱も下がってるし…薬が効いたんだな。後は夜まで寝てろよ」
「それは解っているのだが…」
「人間の身体は寝るのが一番の薬なんだぞ。特にお前みたいに頑丈なヤツは」
「いや、解っている。だが朝から眠りっぱなしで眠れんのだ」
そう言いながら、熱と薬のせいでぼんやりとした頭には放っておけば1日中眠っていそうな当麻に疑問が沸くが、今はそれどころではない。
特に何かするでもなく、ただ身体を横たえるだけというのに慣れていない征士は、その時間の過ごし方に迷ってしまう。
「んー…じゃあ、あんまり良くないんだけど本とか…何だったらDVDプレイヤー持ってきてやるから映画とか観るか?」
「…いや……同じ見るなら当麻が自慰をする姿の方が…」
「……は?」
「だから、自分でするのを」
「はぁ?」
「いや、…あまりこういう言い方は好きではないが、だからオナ」
言葉は全て言い切る前に振り下ろされた拳によって遮られた。
結果は解っていたが、先程より加減が無くなっているのは気のせいだろうか。
いや、当麻の目つきを見ると、気のせいではないのだろう。
「だから、冗」
「何なら強制的に眠らせてやってもいいんだぜ?」
骨ばった拳を硬く握り締めている姿に、流石に征士もそれ以上言葉を続ける事はなかった。
幾ら自分より、いや、5人の中で一番細身とは言え当麻だって妖邪と戦えるだけの身体能力はある。
普通の相手ならば的確に急所を狙い、たった一撃のうちに昏倒させることだって可能だ。
眠れないのは困るが、病の果てにつまらない冗談を言って昏倒させられたなどとなってはいくら何でも恥ずかしすぎる。
「まぁそこまで冗談言う余裕が出てきたのは、安心だけどな」
だから冗談だと解っているのなら殴ってくれなくてもいいのではないか。
そう言おうと思ったが、言って本当に昏倒させられては堪ったものではない。
それにさっきから当麻に助平爺のような要求をしているが、本当にそれは本心ではない。
体力がないのだ、病なのだから。
いや、病でなくとも、特に後からしたような要求など征士はしない。
欲求がないわけではないけれど、1人でさせるより熱情を共に分かち合いたいし、どうせならその反応を自分の手によって引き出したい。
なら何故そんな下らない事を言うのか。
簡単だ。ただ、当麻の不安げな顔を見たくはないだけだ。
当麻を甘やかすのが大好きな征士だが、当然、当麻に甘えるのも大好きだった。
今もこうして臥せっている自分を心配してくれるのは非常に嬉しいが、不安げな表情を見ていると辛くなってしまう。
出会った頃を思い出してもそんなに笑顔を見せる人間ではなかった当麻が、共に過ごす時間を経て今ではよく笑っている。
そんな彼の笑顔が見れない原因が自分の病だなんて、それこそ本当につまらないではないか。
何も無理をして冗談を言っているわけではない。彼の言うとおり、そういう余裕が出てきたからこそではあるが、
兎に角征士は当麻から幸せそうな顔を奪いたくはなかった。
征士にとって病に罹って一番辛いのは、当麻を不安がらせる事だ。
今も、ドアを閉めて出て行く直前の彼の表情は少し緩んでいたのだから、それである程度満足だ。
……まぁ、殴られた箇所は多少痛むけれど。
当麻が部屋を出ると、征士は本当に何をしていいのか解らなくなり、天井をぼんやりと眺めていた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
窓の外から届く陽が赤くなっているのに、どうやら自分がまた眠っていた事に気付くと、今度は自分の肌の違和感にも気付く。
のろのろと目を動かすと、当麻がいた。
「……とうま?」
「あ、起きた」
彼の手にあるのは大き目のタオルと、自分の下に敷かれていたタオルケット。
それから確か昨夜着て寝たままになっていた筈のパジャマと、そして下着だ。
代わりに自分の身にあるのはサラリとした肌触りの布地。
という事は。
「ああ、これ?汗かいてたから着替えさせた」
お前身体デカイから苦労したんだからな、と口調では文句を言っているが当麻の顔は笑っている。
対して征士はどこか恥ずかしげだ。
今更裸を見られたくらいで恥ずかしいという事はない。
一緒に入浴することもあるのだから、身体だって洗ってもらうこともある。
それでも征士の顔は熱以外の理由で赤くなっていく。
洗濯機にそれらを放り込む為に部屋を出た当麻がもう一度戻ってきて、そんな征士のいるベッドに腰を下ろした。
「おい、病人」
乱暴な口調とは裏腹に優しい手つきで頭を撫でてくるのを、征士は何も言えずに見上げると、当麻の笑みは一層深まった。
「つまんねぇ気を遣ってる暇があるなら、とっとと治せよな」
辛そうにしているのを見るのが心苦しいのは、何も征士だけではない。
当麻だって、同じだ。
世間から後ろ指をさされかねない関係ではあるが、他の恋人同士、家族たちのように互いを慈しみあっていたい。
相手の幸せそうな顔を見ていたいし、悲しみは減らしてやりたい。
苦しみだって、半分自分が負えるものなら喜んで負ってやりたい。
その気持ちは、当麻だって、同じだ。
今更ながらにそれを思い知らされて、己の独りよがりを思い知らされたようで、征士は恥ずかしい。
「で、俺を構え」
少しばかりの照れを含んだ言葉と表情に、思わず自分の頭を撫でる彼の手を取りそこに口付ける。
「約束する」
どんな媚態よりも自分を煽る恋人は、同時にどんな薬よりも病に効く。
征士が笑いかけると、それに満足したのか当麻も笑い、その手を彼から取り戻すとアッサリと立ち上がる。
「じゃ俺、洗濯してくるから、大人しく寝てろよ」
「解った」
もう少し傍に居て欲しい気もしたが、彼に風邪をうつしてしまうのは避けたい。
名残惜しい事に変わりはないが大人しく部屋を出る彼を見送ると、征士はもう一度目を閉じて身体を休める事に集中した。
*****
想いは一方通行なんかじゃないですから。