君の名は



征士の祖父と言うのはとても厳格な人だった。
息子娘達は勿論、大概なら目尻を下げて甘やかしそうな孫達にさえその厳しい態度は変わらず、だがその中にも優しさのある人だった。
それは身内にだけではなく外に対してもそうだった為、公平な人物として尊敬され、信頼されていた。


征士が小学校に上がったばかりの頃だ。
初めての運動会の日が、たまたま祖父のどうしても外せない用事と重なっていた。
両親は揃って観に来てくれたし写真だって撮ってくれていたのだから征士としては別に何の不満もなかった。
祖父も、きっとそうだっただろう。
だが運動会からそう日を置かずに、自宅を校長先生と教頭先生が訪れた。
それも菓子折りを持って。
そして祖父に深々と頭を下げ、日程の事を詫びていたのだ。

何も祖父がそういう事を要求したわけではない。
ただ、征士の実家は地元でも有名な名家だった。ただ、それだけだ。
だが田舎という事もあったのだろうか、兎に角彼らは頭を下げていた。
それを幼い征士は、面倒だなと思って見ていた。

その時はただ、家柄や、それに対する周囲の態度が面倒に感じていただけだった。
祖父もそれは思っていたらしく、当時はまだ生きていた祖母に、


「いちいち来なくても良いものを」


と少し相好を崩して告げていた。
その顔は、彼女以外にはあまり向けないものだったのを征士は今も覚えている。
一番下の孫でもある妹の皐月にさえ厳しい祖父は、彼女の口調は兎も角、自身を「お爺ちゃん」と呼ばせなかったし、
笑いかけるといってもやはり祖母へのそれに比べれば幾分硬かったのだから、祖父にとって祖母というのは特別な存在だったのだろう。




その、孫の皐月が来ている。兄の征士とその恋人である当麻のマンションに。

玄関を開けるなり、彼氏に捨てられたー!と叫んだ妹は、兄ではなくその隣に立つ彼の恋人の胸に飛び込んだのを、
意外に狭量な兄は眉間に皺を寄せ、こめかみを震わせて見ていたのをきっと彼女はちゃんと見ていただろう。


「皐月ちゃん捨てるような男って事は見る目のない男だったんだって」


だが一人っ子の恋人はそうやって甘えてくる存在に滅法弱く、今も彼女の頭を撫でながら優しく告げてやっている。


「そう?ホント、見る目ないと思う?」

「思う思う。俺が言うんだから絶対そう」

「当麻さん、見る目ある?」

「あるから皐月ちゃんの兄ちゃんと付き合ってるんだよ」


さらっと嬉しい事を言ってくれているが、だがその背に回した手を離してくれないかと征士は思う。
そういう感情のない抱擁だと解っていても、やはりその手が自分の背以外にあるのは面白くない。


「……じゃああんまり見る目、ないんじゃないかな」


そして黙れ、妹。
そう思っても兄が黙っているしかなかった。
大人気ない事を言うと、今度は恋人が怒るのだ。






「今日はそういう用で来たんじゃないのよ」


ソファに腰掛けてアイスコーヒーを飲む妹は、訪問時とは違いケロっとした顔でそう告げた。
フラれたから慰めてもらいに態々上京したのではない、と。


「では何だ」

「うーん……お願いがあって」

「電話で済ませられないものか?」

「うん。凄く言いにくいことだから、対面でお願いしようと思って」


口調や態度は伊達家の人間には珍しく現代っ子に近い妹だが、こういった礼節は弁えている。
これも祖父の躾けの賜物だ。

彼女はグラスをテーブルに置くと、一息ついてから当麻のほうを向き直った。


「………俺?」

「はい」

「何かな」

「お爺様が、当麻さんからの贈り物が欲しいと仰っています」

「おくりも……プレゼントって事?」

「はい」


言われて当麻と征士は顔を見合わせた。

贈り物。
今は8月も末だ。
来月には敬老の日がある。


2人の関係は昨年末頃に征士が双方の家族に打ち明け、許しを得ている。
それ以来、彼らは義理の親子として互いに良好な関係を築いていた。
正月は伊達の家へ当麻は一緒に帰ったし、そこから少し後の連休には当麻の父のマンションへ出向き男3人で酒を飲んだ。
当麻の母は海外にいたため簡単には会えなかったが、それでも電話で年始の挨拶を交わす事はした。

初めて迎えた母の日には征士は当麻の母に、当麻は征士の母にカーネーションを送ったし、父の日には同じようにそれぞれへ酒を送った。
もうすぐ来るのは敬老の日だ。
当麻の祖父母は父方も母方も、どちらも既に他界しているため、ない。
征士も父方は既に当麻の祖父母同様に他界していたし、母方の祖母は彼が中学になる頃に亡くなっていた。
つまり、彼ら2人に残っている祖父母というのは、伊達の家に居る祖父のみなのだ。

その祖父が、当麻からのプレゼントを欲しがっている、と皐月は言う。


「言われずとも元々送るつもりはしている。お爺様はそんな事を気にしていたのか?」


確かに言いにくい事かもしれないが、そんな事の為にわざわざ妹は上京してきたのだろうかと訝しみながら言った征士の言葉に、
彼女は少し困ったような顔をして首を横に振った。


「そうじゃないの。…いや、そうなんだけど……その…」

「ちゃんと征士と選ぶけど…それじゃ駄目なんだ?」

「うん………その…………」


言いにくそうだ。
伊達家の女性というのは割合言いたい事はハッキリ言う性質だ。
特に言葉に遠慮のない妹はそれが顕著だというのに、その彼女が随分と言いにくそうにしているのに征士は更に訝しむ。


「どうした。ハッキリ言わんか」

「だって、その……」

「征士、そんな怖い顔で言ったら皐月ちゃんだって言いにくいって。なあ?」


この妹に限ってそんな事あるか。
そう思っても年下に弱い当麻には通用しないのは解っているので、征士はまた黙った。


「あの、ね。当麻さん」

「うん」

「お爺様は、当麻さんからのプレゼントが欲しいんだけど」

「うん。俺も爺ちゃんに贈ってあげたいよ」


当麻は征士の祖父の事を、爺ちゃん、と呼んでいる。
他の孫がそう呼ぶ事を禁止しているのに、何故か祖父は当麻だけにはそれを許した。
自分の直接の孫ではないからだろうか。
一族全員、首を捻りはしたが当の本人が許しているし、当麻の人柄を知れば結局今ではあまり気にしなくなっている。
当麻も征士の父母に関しては、オトウサンオカアサンと呼べないくせに、自分の祖父母が居ないからだろうか、
そこには抵抗がないらしい。

そのお爺ちゃんにプレゼントを贈る。
何が問題なのだろうか。


「あのね、………ただ、羽柴当麻から欲しいんじゃないみたい」

「………?」

「皐月、どういう意味だ?」

「その……………伊達の苗字の、当麻さんから欲しいって」

「………………」

「………………」


思わず2人はまた顔を見合わせた。
つまり、伊達当麻という人物から欲しい。そう言いたいのだろう。
だが日本の法律において当麻が伊達の家に入る事は、方法がないわけではないが難しい。それは祖父もよく解っているはずだ。
それに彼はそんな聞き分けのない事を言うような偏屈者ではないし、言えば当麻を困らせるか下手をすれば傷つけるような、
どうしようもない我侭を言うような人物でもない。


「えっと……それは例えば、差出人が、伊達当麻でもいいって事かな」


それくらいしか思いつかないと当麻が思い告げると、皐月の首は縦に振られた。
正解だったようだ。


「そうなの…その…ごめんなさい」


人からすればただ宛名をそうすればいいだけの問題だ。
何も言いにくくないし、そこまで真摯に謝るような事でもない。
だが征士も皐月も、当麻がそういう事に対して抵抗があるのをよく理解していた。

もう何年も前の事だが一度征士が居酒屋でアンケート用紙にふざけて、伊達当麻、と書いた時のことだ。
さっきまで上機嫌だった当麻の機嫌はその文字を見た途端、一気に下降し、そして彼はその紙を無言のうちに破り捨てた。
理由は簡単だ。
自分たちの不毛な関係は幾ら望んでも夫婦になれないという現実を見せ付けられているようで、それが彼は気に食わないらしい。
いや、気に食わないというよりかは、傷付くのだろう。
幾ら愛し合っても全てに認めてもらえる関係ではないし、幾ら慈しみ合っても子を成すことも出来ない。
別に己の性別を恨んだりこの関係にネガティブに思いはなくとも、征士に対して申し訳ない気持ちがないわけではない。
だから当麻はその手の事は冗談でも笑えなかった。

一方、皐月はその話を聞いたわけではないが、それでもデリケートな問題だ。
頭のいい彼女はそれを何となく察し、そういった事は言わないように肝に銘じていた。
誰も愛せないような兄が、四角四面でとっつきにくかった兄が、彼を愛することでがらりと変わった。そう変えた相手だ。
彼女としてもその存在は大切な人に違いない。
その彼を傷つけたり困らせたりはしたくない。

だが、祖父のこの要望である。


「………」


案の定、当麻は困ったように眉間に皺を寄せ黙ってしまった。


「皐月、そんなどうしようもない事を言いに来たのか」


代わりに兄が口を開いた。
幾ら祖父の望みとは言えとんでもない事だ、そんな事は無理だと心の内にしまいこんでくれればいい。
態々そんな事を言いにくる彼女に征士は少しばかり苛立ちを覚えた。
だが妹だって考えなしに来たわけではない。


「そうは言うけど、仕方なかったのよ、お兄ちゃん」


当麻に対するときより兄へのほうが態度も口調も厳しいのは、兄妹だから遠慮がないと思うべきなのだろうか。


「だってお爺様ったら…最近、元気がないのよ」

「爺ちゃんの?」


驚いて当麻が反応した。

盆に会いに行った時は元気そのものだった。
訪問した孫とその恋人を、特に恋人の方を手厚く持て成していたのは2週間も前の話ではない。
その祖父が、元気がない。
それには征士も心配そうな表情になる。


「お爺様が……。何かあったのか」

「夏バテ?」

「お前じゃないんだ、当麻。皐月、お爺様に何かあったのか」

「何かあったわけじゃないの。ただ………お盆だったでしょ?…お婆様との事を少し思い出されてたみたいで…」


祖父にとって常に特別だった祖母が亡くなってもう随分と経つ。
厳しいが人情を重んじる面もあった祖父は、跡継ぎでもある征士が誰も愛さないのを心配していた。
その彼が、同性とは言え遂に心から愛する人を見つけた事を喜んでいたのは家族どころか一族全員が知っている。

気がかりな事がなくなると、人は脆くなることもある。

当麻を伴って初めて迎えた盆に、彼は何か思う事があったのかもしれない。
彼らの関係を喜び全て受け入れたが、若しかしたらせめてもの我侭を言いたくなったのかもしれない。
そう、それは本当に、最期の我侭として。


「爺ちゃんが……」


ニコニコと笑い、蔵にある古い本を全て虫干しして待ってくれていたその人を思い浮かべ、当麻が呟く。
征士の祖父と言うだけあって頑健な人ではあるが、年齢を考えると相当な重労働だったであろうに彼は1人でその作業をしていたと聞いた。
それも全て、古書などに興味のある自分の為に、と。

当麻はゆっくりと瞬きをした。
もう、自分たちの関係は紙や法律の上では他人だけど、それでも家族から認めてもらった関係だ。
つまらない嫉妬や、卑屈な拘りなどもう必要はないはずだ。
確かに男としてのプライドは残っているから常にそれを名乗りたいとは思わないが、それでも。

それでも、大切な人の大事な家族の、望みだ。


「……………………解った」

「当麻?」

「当麻さん…?」


大切な家族のためだ。にっこりと笑って、垂れた眦を更に下げて。


「俺、次の敬老の日、その名前でプレゼント贈るよ」







かくして征士と当麻は2人仲良くデパートへ出向き、祖父へのプレゼントを選び、そして差出人の欄にはしっかりと
伊達の苗字の下に当麻の名を書き記した。



数日後、妹からの電話で事の顛末を聞いた征士は当麻への申し訳なさよりも、呆れのほうが強く言葉を暫く発せなかった。


祖父は昔から公平な人だった。
だが周囲は彼の人柄を敬い、そして家柄を重んじ、常に彼に特別の配慮をしていた。
祖父自身はそれを面倒だと思う事も多かったが、しかしそれでもその扱いに慣れていた部分はやはりあった。

祖父は、自分が特別だという事を、意識するでもなく当然のように思っている部分があった。

そんな祖父を特別扱いしなかったのが祖母だと、征士は大昔に大叔母から聞いた事がある。
他と違う態度の彼女に若い時分の彼は心底惚れ込み、交際をすっ飛ばして結婚を申し入れた、と。
その彼が、自分に対しても他と態度を変えない当麻を気に入らないわけがない。
他の孫には決して見せない柔和な笑みを見せ、彼の為に自ら動くことも多々ある。
そこには勿論、彼の孫のような感情は一切ないが、それでも当麻が可愛いのだろうというのは誰の目にも明らかだった。

さて、その祖父だ。
特別扱いされることが面倒ではあるが、嫌いではない。
特に自分の気に入っている人物からされる特別扱いは寧ろ好きだ。
現に祖母がおはぎを作った時など器用な彼女はどれも同じ量、形で作っていたのに、それでもその中で一番大きなものを、
一番綺麗なものを欲しがっていた。

その、祖父だ。

父母が貰った贈り物と同じでは、やはり気が済まなかったのだろう。
だが内容物はどうにも変えようがない。
そこで彼が、無意識かもしれないが、それでも選んだ特別性。
それが、羽柴当麻、ではなく、伊達当麻、からの贈り物だった。というわけだ。

盆の後に元気がなくなったのは、勿論祖母との事を思い出していたため感傷に浸っていたというのは、ある。
だがその他に、張り切って虫干し作業をした疲れがその頃になって出てきたというのもあった。
ただ、それだけだった。


それを妹から電話で聞かされた征士は少しばかり悩んでいた。
祖父の先が長くないかもしれない。
そう思い、彼にしては随分と思いきった行動に出てくれた当麻に、この事実を何と告げていいのか。

彼は、切断音のする受話器を握り締めたまま、暫く立ち尽くすばかりだった。




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伊達の爺様ですから、勿論、長生きします。