マドレ



息子に会いたくなったから来て何が悪いの、と言った母が元いた場所はアメリカで、それもニューヨークだった筈で、
思いつくままに飛行機のチケットを取った彼女がそのまま日本を訪れれば、それはまだ土曜日の朝8時だった。


「出る前に連絡を下されば空港まで迎えに上がりましたよ」


征士はそんな彼女の来訪を丁重に迎えたが、実の息子のほうは行儀悪く椅子に座ったままだ。


「もう、当麻くんったらそんな顔して。折角可愛く産んであげたのに勿体無い!」

「母さん、俺もういい歳なんだから可愛いとかそういうの、ないって。そもそも何で思い付きで行動するかな」

「当麻くんもそういうトコあるくせに棚に上げて。…だって息子の顔が見たくなったんだもの、しょーがないじゃない」

「もし留守だったらどうするつもりだったんだよ…征士の言うとおり、連絡くらいくれよな」

「はーい」


返事はいいがきっと次も同じ事を繰り返す。だってそこは当麻の母親なのだから。
そんな彼女に当麻が吐いた溜息は、何も母の来訪が面倒だからではなく、安堵から漏れたものだった。

そう、もしもこの来訪が1時間、いや30分早ければかなり危なかった。

翌日が休みというのをいい事に昨夜遅くまで愛し合い、そしてそのまま眠りに就いた2人は当然、1時間前は裸のままベッドにいた。
そしてその後、2人仲良く浴室へ雪崩れ込みもう一度愛し合ったわけではないが互いの身体や髪を洗いあったり、何度もキスをしたり、
見つめあったり抱き合ったりと、かなり甘い時間を過ごしていた。

この関係が自白する前からとっくにバレていたのは重々承知だ。
けれど、それでもやはりその具体的な状況を見られるのは普通の男女でも避けたい状況だ。
男同士なら尚更だし、まして女のように抱かれている様など母親に見られて堪るか。というのが当麻の弁だ。
いや、征士も同じだろうけれども、兎に角、冗談ではない。

間一髪セーフ。

濡れた髪も征士が乾かしてくれたお陰で、僅かに湿り気を残すだけになっている。
服だって勿論ちゃんと着ているし、教育の賜物か、体に残された昨夜の名残はきちんとその服で隠れている。


「何か飲み物を淹れましょう。何がいいですか?コーヒーか紅茶か…それとも日本茶がいいですか?」


征士の家族(特に女家族)が来た時と全く逆で、征士が甲斐甲斐しく動き、当麻は殆ど動かない。
こういったところは割と2人は似ている。


「折角日本に来たんだし、日本茶がいいなー。あ、伊達くんが淹れてくれるの?嬉しいな。当麻くん、ちょっとは動きなさいよ?」

「俺はコイツの家族が来た時に動いてます」

「まー、外面ばっかりいいのね!…どっちに似たのかしら」

「さーね。まぁ外面とかないもんな、父さんも母さんも」

「裏表がない性格なのよ」

「TPOを弁えない性格とも言うけどな」

「とーまくん!」


母子の遠慮のない言葉の遣り取りに、最初の頃は目を白黒させた征士も今ではすっかり慣れ、彼らを微笑ましげに眺めるばかりだ。

ケトルを火にかけ急須に茶葉を移し、湯飲みを探しているといつの間にかその征士の傍に当麻が立っていた。


「…?…どうした?」


妙に近い距離にいることから、何か言いにくいことだろうと察した征士が小声で聞くと、裾を引かれ更に顔が近付く。


「征士、お前暫くお袋の相手しててくれよ」

「…お前は?」

「俺、その間に寝室片付けてくるから」

「………なるほど」


昨夜、愛し合った。そのまま、寝た。
今朝もそのまま浴室へ行き後で片付ける予定だった部屋は2人の服が脱ぎ散らかしてあるし、ゴミ箱には不自然にティッシュが多い。
しかも昨夜は久々に潤滑剤を使ったが、当麻の記憶が確かならそれは出しっぱなしで枕元にあるはずだ。

あんなもの、見られて堪るか。

で、ある。
来訪したのが征士の家族である場合、家の者に断りもなく勝手にあちこち覗いたりするような不躾な真似は絶対にしない。
過去に来た事があるが、当麻の父親だってそんな真似はしない。寧ろ彼は妙に緊張してガチガチで、ソファから殆ど動かなかった。
だが今日の相手は当麻の母親である。油断ならない。
好奇心旺盛な彼女がいつ、勝手に寝室に入るか解ったものではない。
今までも何度か来訪しているが、今のところそういった事は無い。
だがこの関係を、彼女に対して完全に認めてから初めての来訪が今日だ。
今まではプライバシーとして守ってきたものも、若しかしたら遠慮がなくなる可能性は大いにあった。


「兎に角、簡単に片付けるだけだからそんなに時間稼がなくていいけど、俺が席外してるのをお袋が気にしない程度には」

「ねー、とーまくーん!こっち、当麻くんの部屋でしょー?ちょっとくらい片付けしなきゃ、本がぐちゃぐちゃよー?」

「!!!!?」


2人は一斉にリビングを見た。
いない。
さっきまでダイニングテーブルに座っていたはずの母親が、いない。


「かーさん!!!!!!何勝手に人の部屋入ってんだよ!!!!!」


かなり本気で怒鳴っているが、母親はケラケラと笑いながら戻ってくる。


「だって当麻くん、伊達くんとこ行っちゃってママ暇だったんだもん」

「暇だからって…大人しく待ってろよ!」

「いーじゃない、減るモンじゃなし」

「減る!俺の神経が磨り減る!それに本がぐちゃぐちゃって言うけど、俺はアレで場所覚えてんの!勝手に触るなよ!?」

「っも、そういうトコ、パパに似たのね」

「母さんにも似たよ!アンタら共通してたよ、そういうトコ!」

「そんなに怒鳴らなくたっていいじゃない、ちょっと探検しただけで」

「家主に断りなく勝手にあちこち覗くのは探検とは言わねーよ!」

「息子の部屋見て何が悪いのよ」

「その息子ももう大人なんだから気ぃ遣えよ!それに開けたのが征士の部屋だったらどうするつもりだったんだよ!」


本当は、寝室だったらどうしてくれるんだよ!と言いたかったが、それは辛うじて飲み込んだ。
もし言ってみたりすれば、あっ寝室見たーい!などと言い出しかねない相手だ。


「ママの勘で、こっちが当麻くん!って睨んで入ったから大丈夫よ。それに万が一間違えても、伊達くんも息子みたいなものじゃない」

「違うだろっ!」

「あら、ウチの子をお嫁に貰ってくれたんだから、それは世間でも”息子”って呼ぶわよ」

「うちは通常と違う関係だし、そもそも俺は嫁に行った覚えはない!!」

「私はきちんとお義父様に挨拶に伺ってお前を貰った覚えはあるのだが…」

「今はそーいう事、どうだっていいんだよ!話をややこしくする気か!?お前はどっちの味方だよ!」


きちんとしておきたい部分を思わず主張した征士だが、当麻に言われ確かに今言うべきではなかったと反省したが遅かった。


「え、伊達くん、挨拶って、ね、ね、源一郎君、なんて言ってた!?」


母の好奇心はそちらへ向けられてしまった。
当麻は額に手をあて、天を仰ぐ。

ややこしくしやがった……

自分の家族とはまた違う方向性にパワフルな当麻の母に、案の定征士はしどろもどろになりながら救いを求めて当麻に視線を送る。
向けられたって当麻だってもうどうしていいか解らない。
そもそも墓穴を掘ったのはテメーだろうが…と思いはするが、墓穴と言う言葉を使う事さえ憚られる。
そこに食いつかれても堪ったものではない。
どしようか、そう思案するがいい案など出ない場合、神か仏か、救いは何処に求めるべきか。


ッピーィ……


どうやら救いの手は笛付きのケトルから差し伸べられたようだ。




「……お茶を、淹れます」


それを口実に征士がキッチンへと逃げ込むのを、当麻は少し睨んでから母親にまた椅子をすすめる。


「…何かお菓子出すから、…食う?」

「あ、食べる!………って、よく考えたら当麻くんたち、朝ご飯食べたの?」


食べていない。
何度も言うが昨夜愛し合ったままに寝て、起きてすぐに浴室だ。食べてなんかいない。だが水分だけは取った。


「食べてねぇよ………くそ、思い出したら腹減ってきた…」

「あら、駄目よー、ちゃんと食べなきゃ」

「誰のせいで食べ損ねたと思ってるんだよ…もぉ…」

「ママのせいっていうの?…あ、でもまだこんな時間か。……当麻くん、何で起きてるの?」

「俺が起きてちゃ悪いのかっ!一体誰に会いにきたんだよ、今日!」

「当麻くん。と、伊達くん」

「……………………………もー何か俺疲れてきた…」

「やだ、ママ来てあげたのに寝ないでよ?」

「母さんが来てて安心して寝れるわけねーだろ…」

「どういう意味よ」

「色んな意味だよ」

「ホンット、当麻くんったら可愛い顔して可愛くないことばっかり言うから、可愛い!」

「もー意味わかんねぇよ………征士ぃー、何か軽く食べるもん、あったっけ?」

「あ、じゃあさ、今から何処かに朝食しに行きましょ!」

「え!?征士、お茶淹れてくれてるのに!?」

「じゃあ、それ、飲んでから。ねー、伊達くん、この辺で美味しいモーニング食べれるお店ってあるー?」

「近所という程ではありませんが、車で少し行ったところにあります」


湯飲みを3つと、棚においてあった羊羹を切ったらしくそれを盆に載せた征士が出てくる。


「あ!その羊羹、俺の…」

「丸齧り用だが構わんだろう?お茶請けがこれくらいしか見当たらなかったのだ」

「………くそぅ…厄日かよ」


当麻はパソコン作業中の糖分補給用として羊羹を1本丸ごと食べる時がある。
曰く、甘くて美味しくて腹が膨れて、尚且つ手も汚れない。らしい。
羊羹をそんな風に食べる人間など見た事がない征士は、最初その姿を見た時は相当驚いたものだ。
だが悲しいかな、今ではそれにも慣れてしまい、美味しそうに頬張る彼を寧ろ愛しげに眺めている事だってある。


「あ、さすが当麻くんが選んだだけあるわね。美味しい、コレ」

「ソレ、態々遠出してまで買ってきてんだからな…!」

「また買いに行けばいいだろう」

「…車、出してくれよ」

「解った」


じゃあ、いい。
そう言って差された竹楊枝を摘まんで口へと運ぶ当麻の髪を撫でる手があった。
視線を向けると、母の手だ。


「……なに」


もういい大人だ。恥ずかしさに頬を染め、ぶっきらぼうに言うがそんな態度に怯むようでは母親などやっていられない。


「んー?良かったねーって」

「羊羹?」

「違うわよ。……ちゃんと甘えられる人が出来て、良かったねって言ってるの、ママは」

「……………………甘えてねーし」

「甘えてるわよ」

「甘えてねぇ」

「そうかなぁ」


嬉しそうに微笑む母に、これ以上此処に居るのが恥ずかしくなった当麻は急いで残りの羊羹を口に放り込み、
猫舌の癖に無理をしてお茶を一気に呷ると、慌しく席を立った。


「折角のお茶をそんな風に飲んで勿体無い。風情のない子ねー」

「うるさいなっ!朝飯、食いに行くんだろ!?俺、上着と財布取ってくる!」


逃げるような後ろ姿を見送っていた母はドアが閉まるまでそれを眺め、そして残された征士に向き合う。


「伊達くん」

「…はい」

「当麻くんのこと、ホント、ヨロシクね」


ニッコリと笑って言う彼女は、少女のようだがやはり母親らしくもある。


「当麻くんってね、凄い寂しがり屋なのに、子供の頃から全然本音言わないから。……ってそれは私達のせいなんだけど…
だからね、ちょっと甘えすぎてるかもしれないけど、正直、親としては安心するの。今の当麻くん見てると」


だから、あの子のこと、お願いね。

母のその言葉に征士は頷いて応える。
それに彼女の笑みは一層深まった。


「ホント、伊達くんで良かったわ。コレで私も源一郎君も、安心できるって話してたの」

「…それは……いつ」

「ん?昨日」

「昨日…?」

「そう、昨日。源一郎君と向こうで会って話になったのよね」

「それで会いたくなったんですか?」

「そうよ。当麻くんが幸せそうにしてたって言うから、私もそういう当麻くんに会いたくなっちゃったのよね。
源一郎君、伊達くんのこと凄く褒めてたわよ。今時珍しいくらい良い子だって。あれなら性別なんて関係なく息子を任せられるってさ」


嫌味なく綺麗に着飾った母親はにっこりと笑うと、息子にそうしたように征士の頭も撫でた。





「おーい!早く行こう!俺、マジで腹減ってきたってー!」


既に準備万端の当麻が玄関で靴を履き、2人が来るのを待ちきれず声を上げる。
中途半端に食べた羊羹で胃が刺激されたのだろう。
空腹のまま放置し続けると当麻の機嫌は下降の一途を辿り、修正が難しくなってくる。
それをよく知っているのは母親も征士も同じだったらしく、同時に噴出して彼の為に残ったお茶を一気に飲み干した。




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マドレってスペイン語でお母さんなんですって。知らんかった。から、調べました。