それじゃ意味が無いのではないでしょうか
「征士……っ!俺が悪かったから…!」
まだ朝も早い時間だった。
当麻は必死に征士の背を追い、出勤の支度をしている彼に向けて必死に声をかけるが征士からの返事はない。
彼は当麻に背を向け無言のままに手近にあった物を予め用意しておいた紙袋に詰め込んでいく。
声をかけても振り向くことさえしない征士に焦れ、当麻がその腕を掴むがそれさえも征士は邪険に振り払うのだ。
目も、合わせずに。
「征士、…せいじ!」
自分に縋りつく当麻を邪魔だと言わんばかりに突き放し、征士は荷物を纏めて玄関へと向かう。
いつもは優しい彼のそんな仕打ちにか、それとも悲しみにかは判らないが、呆然とした当麻はそれでも慌てて彼をまた追う。
玄関にいた征士は靴を履き、車のキーに手を伸ばしていた。
「征士、なぁ、征士、ごめんって…!俺が悪かったから、だから…!!」
必死に縋り、許しを請う当麻の目の前で、やはり振り向きもせずに征士は玄関を開け、無言のまま出て行ってしまった。
バタンと無情な音を立てて閉ざされたドアを力なく当麻は見つめ続けた。
そんな言葉は聞き飽きた。
せめてそう言ってくれれば気も楽だったのかもしれない。
だが征士は何も言ってはくれなかった。
背を向け、目も合わせず、無言のままに出て行ってしまった。
彼の仕打ちの原因は、我慢が出来なかった自分だというのを当麻はよく解っていた。
だから彼への恨み言など出てこない。
そう、自分が悪いのだ。
いつまでも彼の優しさに甘え、その気持ちの上に胡坐をかいていたのは自分だ。
誘惑に負けたのも、自分だ。
バレなければいいだろうと彼を欺いたのも自分だ。
だから彼は何一つ悪くない。
そう、悪いのは全て自分だ。
「せぃじ……」
俯いた顔に涙はなかった。
ただただ、彼の帰宅を待つしかなかった。
当麻にはもう、それしか出来る事はなかった。
会社に着いた征士は自分の席にカバンを置くと、滅多と寄らない女性社員の集まる休憩室に顔を出した。
たまにお菓子を集りに来る男性社員もいたが、普段ならありえない来訪者に少しばかり彼女達が色めき立つ。
「あら、伊達君、どうかしたの?」
勤続15年以上の総務課のリーダーが対応する。
他と違って彼女が落ち着いて征士に接するのは、自身が既婚者だからか、それとも単に慣れているからか。
その彼女を見つけて征士も少しばかり安心したように肩の力を抜いた。
「すみません、朝から。……あの、またで申し訳ないのですが、もし宜しければこれを…」
そう言って征士は彼女に大きな紙袋を3つほど手渡した。
それは朝、縋る当麻を振り払って持ち出したものの全てだった。
「あらぁ……………また?」
「すみません。ご迷惑なら他を探します」
「あ、違うの、そういう意味で言ったんじゃなくて……悪いわねって意味でね」
「いえ、悪いという事はありません」
「…そう?でもこの量…随分悲しませたんじゃない?」
気遣う彼女の言葉に征士が思わず苦笑いをしてしまった。
その顔はいつも凛としている彼にしては珍しく、朝から随分と疲れを色濃く滲ませている。
「ねぇ、毎回聞くけど本当にコレ、全部貰っていいのかしら。その……お代、とか…」
「構いません。此方としては引き取ってもらっているだけでも助かっているのですから」
「そう?じゃあ…悪いわね、ありがとう」
「こちらこそ。…では失礼します」
休憩室の入り口での遣り取りに、今年入社したばかりの事務員が不思議そうな顔をして問いたそうにしたが、
それをリーダーはさり気なく遮って征士をそのまま見送った。
残されたのは彼女の手にある大きな紙袋のみである。
「…これ、何ですか?」
本人に問いただせないのならと彼女は早速リーダーに質問した。
すると聞かれた方は溜息を吐き、しかしどこか嬉しそうにそのうちの1つの袋をひっくり返し、その中身を机の上にぶちまけた。
「………え」
出てきたのは、どれもこれも綺麗にラッピングされた箱だ。
大小あわせて目を瞠る量の箱たちは、出るわ出るわ、相当な数だ。
思わず残りの袋に視線をやる。それをリーダーはしっかり見ていたようだ。
「あっちも同じよ」
そう言って嬉しそうに出したばかりの箱の検分を始めていく。
「あ!これ………!!もう売り切れてたヤツよ!」
「ねぇ、これ!これ、アタシ前にテレビで見たわ、確か海外セレブ御用達のお店で日本にはナイやつよ!!」
「嘘!!!」
先程の征士の来訪とはまた違った喜びに先輩達が浸っているのを、新人は不思議そうに見ていた。
それに漸くリーダーからの答えが返って来た。
「これね、ぜーんぶ、伊達君の恋人のなの」
「こい…びと」
噂には聞いている。
社内どころか近隣の会社からも人気の高い美丈夫には、既に心に決めた愛しい人がいるという事は。
だがコレは何だろうか。この大量のコレはどう見ても。
「何でもねー、伊達さんの恋人って、もんのすごい甘党なんだって」
「そうそう、それも胃が底なしらしくって食べる量も凄いって」
箱にうっとりしていた先輩たちも参加してくる。
「ほら、今の時期って限定チョコとか多いでしょう?それでね、どうもその人が沢山買っちゃうんですって」
言葉を継いでリーダーがまた話し始める。
そう、バレンタインが近付けば最近では過剰とも言える程にあちこちで商戦が始まる。
昔はそれこそデパートであったり専門店のみだった筈が、ネットの普及も手伝って今では24時間何処でも購入が可能になった。
それに伴いその商戦に参入する側もヒートアップしていき、有名店とのコラボ品!と謳った物まで増えている。
それに喜んだのは世の女性だけではない。
征士の恋人である当麻も大いに喜んだ。
この時期にしか出ないチョコレートは勿論食べたいが、人込みが大嫌いな当麻は店に出向くのを面倒に思っていた。
それが今はどうだろうか、店に行かずとも美味しいものが取り寄せ放題、しかも海外からも取り寄せ放題ときたものだ。
喜ぶか、喜ぶに決まっている。尻尾があれば千切れんばかりに振っていることだろう、パソコンの前で。
最初は征士だって、過去には店の前で羨ましそうにしているだけだった当麻が、幸せそうにチョコを食べているのを見るのは嬉しかった。
だが物には限度と言うものがある。
なのに当麻は昔から好きなことへの我慢というのが、どうも他の人間より出来ない性質らしい。
次から次へと購入しては食べていく。
なまじ同年代の他の連中より稼ぎがいいから困りものだ。
幾ら他より糖分を大目に必要とする体質とは言え心配な事に変わりはない。
普段、フリーランスで仕事をしている当麻を気遣って健康診断を受けさせてみれば、糖尿というわけではなかったが、
それでも数値はギリギリ正常範囲だ。
征士は心配で胸が張り裂けるかと思った。
若い時分とは違うのだ、身体の機能は衰えていき蓄積されたものを排除する能力だって落ちていく。
このままでは当麻は病気になってしまう。
そうなる前に、どうしてもまずその習慣を改める必要があると征士は思った。
愛しい当麻のためだ、心を鬼にする必要がある。
征士のその申し出に当麻も思う事はあったのだろう。
素直に頷いて、少しばかり自制を覚えてくれた。
だがこの誘惑の多い時期だけは駄目だった。
征士が帰宅すると家の中から仄かに甘い匂いがする。
普段食べつけない征士はそれを敏感に嗅ぎ取り、彼を問いただせば素直に購入した物を差し出した。
その時はそんな彼を窘め、だが反省の言葉を聞くとすぐにその身体を抱き寄せて甘やかした。
それが、いけなかったのかも知れない。
彼は翌年も同じ事を繰り返した。
だから征士も、前年と同じ言葉を彼に告げた。
反省も、あった。そして抱き寄せた。
だが。
しかし。
その数日後に、また同じ事を当麻はやらかした。
それも今度は巧みに隠そうとした形跡まであった。
これには流石に征士も激怒した。
どれ程自分が彼を思っているのか、何を思ってこう言っているのか、懇々と言って聞かせた。
反省の言葉はあったが、もう許さなかった。
だから征士はそれらを全て袋に詰め、会社へと持って行き、女性社員たちの休憩のお供に差し出した。
それが繰り返されてもう何度目だろうか。
お陰で彼女達は買い逃した限定品も、全く知らない海外での名店の品も、この時期は買わずともありつける。
その経緯を聞きながら新人は手元にある箱を眺め、彼の恋人の事を思う。
「でも…こんなに買うほどチョコレートが好きなら……きっと随分落ち込んでるんでしょうね、その人…」
本当に貰ってしまっていいのだろうか。
若しかしたらこの中には、彼へのプレゼントもあったのではないだろうか。
そう思うと素直に諸手を上げて喜べない。
「大丈夫よ、心配いらないって」
「でも」
「ま、落ち込んでるのは本当みたい。最初にコレをやった次の日に随分伊達君も落ち込んでたわ、相手を凹ませすぎたって」
「…何かお返しをあげた方がいいでしょうか…」
「だから大丈夫だって」
「え、だって」
「だーかーら。今日の帰りにね、ホラ、そこの…えーっと、何だっけ店の名前、オシャレ過ぎて忘れたわ、あの、ほら、
有名ショコラティエの…そこの、ホラ、ねぇ、判るでしょ、いつも凄い並んでる店」
「…?あ、ああ、はい、解ります。あのお花屋さんの横ですよね」
「そう!そこ!!毎年そこでコレの代わりに幾つかのチョコと、ケーキを買って帰って慰めてるみたいだから、心配ご無用!」
「……………」
それでは結局意味が無いのではなかろうか。
いや、それよりも甘いものは苦手だと人伝に聞いたがその彼があの甘い匂いの充満する店に、それも時期がら多くの女性で
溢れかえったあの店に出向き、そして並ぶのだろうか。
「………まぁ、伊達君の恋人第一っぷりはねー、もう、凄いから…
それに帰った時に自分の手にその箱があるのを見つけた時の喜んだ顔がまた可愛いんですって」
リーダーはそう言って眉尻を下げて笑う。
ベタ惚れなのよね、と付け加えて。
「ベタ惚れ、ですか」
恋人がいるのは知っていたが、それでも少しばかり彼をいいなと思っていた新人は寂しげに呟く。
社内でも彼に対して、あわよくば、と思っている女性は多い。
だが同時に付け入る隙など一分も無い事も解っている。
「いつだったかなぁ、忘年会で飲んでたときにね、珍しく伊達君が自分で言ってたのよ。
学生時代からずっと好きで、相手がフリーになった時に漸く思い切って告白したんですって。もうねぇ、その人一筋って感じで…」
「伊達さん、ご自身で喋ったんですか…?」
普段、聞かれてもあまり自分の事は話さない彼がそんな話をするのだろうかと聞き返せば、
またリーダーである女性はチョコを片手に笑った。
「何でもね、その日はその恋人が迎えに来てくれるからって機嫌が良かったみたい。珍しく酔っててね。
じゃあ折角だからって皆でその恋人の顔を拝みに行こうって言ったんだけど、伊達君が見せてくれなかったのよねぇ…人見知りするから駄目だって。
でもね、後でこっそり聞いたら伊達君ってば、他の人に恋人を見せて取られたら堪ったものじゃないって」
あんな男前から誰が恋人を奪えるっていうのよねぇ、と続けた彼女は時計を見て慌てて仕事の準備を始める。
「滅多と喋らないくせに、ホンット、物凄い惚気っぷりだったわよ。聞かせてやりたかったわー……聞いたらオナカイッパイになっちゃうけど。
ってホラ、早くあなたも準備する。朝の掃除、まだ済んでないんだからね!」
そう言い残して部屋を出て行ったリーダーは、何かを思い出したようにもう一度部屋に戻り、そして彼女に向けて、
その恋人にお礼を言うのも嫌味になるから駄目だからね!と言うと、今度こそ彼女はパタパタと部屋を出て行った。
部屋に残された新人は箱の山を見る。
…………この中からお父さんとお兄ちゃんへのチョコを選んでもいいかな…?
そんな風に考えて、自分の担当するべき掃除場へと向かって行った。
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征士と当麻の殆ど出ない、征当話。
夜は当麻を膝に乗せてチョコを与えながら説教します。多分、意味が無いですよ征士さん。