安眠妨害
昼というには些か遅く、夕方と呼ぶにしてはまだ外が充分に明るい時間、ベランダに干してある衣類とシーツを取り込むため、
当麻はパソコンとの睨み合いを一旦中断して席を立った。
衣類のぶら下ったハンガーを室内へ取り込み、続けて下着類をポイポイと放り込むと、今度はシーツにとりかかる。
2人が寝ているベッドはとても大きく、それに使うシーツもやはり大きい。
別にそこまで重たい物でもないが丸めてもそれなりの量になるため、気持ち腰を反らし気味の姿勢をとる。
その時だった。
「………………ッテェ…!」
短い悲鳴を上げて当麻がその場に膝をついた。
洗ったばかりのシーツは直前に部屋へ向けて放り投げたため、無事だったようだ。
当麻は腰を抑えながらもソレだけは確認し、安堵の息を漏らした。
シーツを洗い直すなんて面倒な真似はこれからしたくない。
というより、したくとも出来ない。
それほどに、今。
「……こ、し…!!」
そう、腰が酷く痛んだ。
もう一度アレを抱えて洗濯機に放り込んで干すなどと、できない程の激痛。
いつまでも外にいるわけにも行かず、左手を腰に添えたまま必死に這って室内へ戻ると、壁を伝うようにしてベランダへ続くガラス戸に鍵をかけた。
ソファにだらしなく身を投げ出すと深く息を吐き出す。
まだ腰の奥の方にジンジンとした痛みを感じ、当麻は顔を歪めたがそれは痛みのせいだけではなく。
「…………征士のアホタレ……っ!」
此処に居ない相手に対し、これでもかという程の気持ちを込めて悪態をつく。
若干頬を赤く染めながら。
当麻の腰が、痛い。
征士のせいで。
となると理由は1つ。
所謂、夜の営み、というやつのせいだ。
当麻に言わせると年中発情期、征士に言わせると愛しているのだから当たり前のソレは、同じ年数を共にしている他の恋人たちより、
明らかに求め合う回数が多い。
出会った頃から変わらず朝の素振りを日課としている征士は体力があるとしても、デスクワークが基本、その上グウタラの当麻はそうはいかない。
回数もそうだが、1回の長さと言うか濃さと言うか、兎に角当麻の負担が半端ない。
…と言っても流石に内容を他と比べた事がないのでそれが平均的かどうかは解りかねるが。
いっその事、もう1つベッドを購入しようかとも考えないでもない。
だが先にも触れたように2人のベッドは相当大きい。
それが寝室に、どん、とあるわけだ。
もう1つ置こうと思えばそれはシングルサイズが限度だろう。
それで充分といえば充分だが、大きなサイズに慣れてしまった当麻には少々物足りない。
かと言って身体の大きな征士をそちらで寝かせるわけにもいかない。
と、何のかんのと理由を付けてはいるが、本当は彼の体温を近くで感じられないのはどこか心許無く、行為に及ぶ及ばないはさておき、
征士に抱き締められての睡眠が実は当麻は相当気に入っている。
と言っても。
「……このままじゃ俺、寝たきりになる…洒落なんねぇ………絶対今日はヤらせてやらねぇからな…っ」
今日許してしまえば、5夜連続となる。
それだけは避けたい。
このままでは明日、立つことさえままならなくなってしまう。
それに寝不足気味でもあった。
明日は近所のケーキ屋で数量限定のロールケーキが販売される。
当麻は前々からそれを買いに行こうと楽しみにしていたのだ。
だから立てなくなる事も、寝坊してしまう事も、絶対に避けたい。
因みに征士だって当麻が拒めばちゃんと止めてくれる。
それは残念な事に毎回というわけではないが、それでも当麻が何より大事な征士は彼が本当に嫌がれば当然、無理は強いない。
当麻だって結局流されてしまうのだから、実はどっちもどっちだ。
つまり征士ばかりが悪いわけではない。
だが当麻にだって言い分はある。
征士のあの優しい手の感触だとか、官能を揺るがす低い声だとか、言葉で語るより雄弁に愛を伝えてくる眼差しだとか、
そういったもの全てを与えられて誰が拒めるものか。
要は当麻だって征士が好きなのだから、最初はその気がなくともやはり愛しい人の求めに応えたくなるのだ。
だが兎に角今日はもう駄目だ。
絶対断る。何が何でも、断ってやる。
そう強く心に決め、取敢えず食事の準備に取り掛かった。
征士が仕事から帰ってきたのは夜の8時ごろだった。
出来たてを揃って食べるという習慣は元々当麻にはなかったが、柳生邸で皆で暮らすうちに身についた。
それは2人で暮らすようになってからも変わらず、余程の事がない限り夕食はいつもそうしている。
基本的には征士が作ることの方が多いから、というのも理由の1つだが、当麻だって何も鬼ではない。
仕事で疲れて帰ってくる彼のために、たまには料理くらいはする。
その時も先に食べたりはせず、必ず彼を待って、彼の帰宅に合わせて食事の準備をしていた。
味噌汁を温めなおし、時間をかけて煮詰めていたハギの具合を見ている当麻の背後に征士が近付いた。
「今日は何だ?」
「ハギの煮付け。お前のお母さんに教えてもらったヤツ」
見た目にそぐわず典型的な日本家庭で育った征士は和食が好きだ。
そして彼の母の作る和食はとても美味しい。
現代っ子丸出しの当麻もその味はとても気に入っていて、幾つか料理の手ほどきを受けているほどだ。
勿論、それは食道楽の自分のためでもあったが、それ以上に恋人のためでもある。
決して本人の前では言わないけれど。
「おら、邪魔だって。さっさと脱いでこいよ。その間に準備しといてやるから」
すぐ真後ろに気配を感じて、その腹に軽く肘を入れてやる。
自分と違い硬い腹筋に何だか腹が立つのは八つ当たりに近い感情で、だがそれもすぐにどうでも良くなる。
いつもの事だ。
「わかった」
返事は良かったが征士はすぐに離れてくれなかった。
不審に思っていると、そっと腰に手を回される。
そして。
「脱いで来ればいいんだな?」
低く、艶を含んだ声が耳に直接吹き込まれ、当麻の頬が赤くなる。
羞恥と、怒りで。
「脱いだら何か着てこい!変質者か!!」
スリッパ越しに思い切り脚を踏みつけてやると征士が短く呻いて、だが笑いながら解ったと答え、漸く離れてくれた。
残された当麻の顔は未だ赤い。
あの声が駄目だ。
何度聞いても慣れないものは慣れないらしい。
背中をゾクリと粟立たせる甘い響きについ流されそうになるが、今日は流石に、本当にもう駄目だ。
食事をさせて風呂を済まさせて、そして今日は大人しく寝かせよう。
そうもう一度心に誓いながらコンロの火を止めた。
食事が済み風呂も済み、2人でいつものように並んで夜のニュースを見て、気付けば時計は夜の11時半。
「…そろそろ寝るか」
征士の呟きに当麻が身を硬くする。
「や、俺、洗い物してから行くわ」
「明日でも大丈夫だろう?」
「気になるし」
「いつも気にしないくせにか」
「いいだろ、別に」
「あまり遅くに水音を立てると近所迷惑になるぞ」
「いーから!明日の天気も見てから行くから、お前先に寝てろ!」
一緒にベッドに入ってしまうとあの声にも手にも、目にも全てに逆らえる筈がなく、流されてしまうと思った当麻は、
征士が寝てからベッドに潜り込もうと必死だ。
だが当麻が何故頑ななのか解らない征士は首を傾げるばかり。
「天気予報ならさっき見たではないか」
至極尤もな指摘をすると、当麻の眉がピクリと跳ねる。
「何でもいーから、兎に角とっとと寝ろ!!」
必死の当麻に押され、釈然としないままではあったが征士は寝室へと向かって行った。
それを見送った当麻は溜息を吐いて、宣言してしまった以上は仕方なく洗い物に取り掛かる。
フライパンを置く時に横着して腰を変に伸ばしたが、やはりズキリと痛んだ。
やっぱり今日は絶対無理だ。
先に寝かせて正解だった、と思い残りも全て片付けていく。
征士がベッドに入ってから恐らく20分は経った。
これくらい時間が経てば征士だって寝つきはいい方なので、もう寝ているだろうと安心して当麻も寝室へ向かう。
先に寝られているのは少しばかり寂しい気もするが、自分の安眠のためだ。
それにいつも自分が先に眠ってしまうため、征士の寝顔と言うのはそう滅多に拝めない。
それを見るのもたまにはいいかも知れないと思いなおし、ベッドの近くに立ち、その顔を覗き込む。
寝ていても当麻が眠る場所を、後から来る彼が入りやすいようにと律儀に空けてくれている事に笑みがこぼれた。
意志の強さを伺わせる紫の瞳は今は閉じられている。
綺麗に通った鼻筋も、彼の実直さを表した様な口元も、全てが当麻の大好きなパーツだった。
面食いだと言われ、自分でもその通りだと彼の顔を見るたびに思う。
けれど何も顔だけで彼を選んだわけではない。
当麻自身も気付かなかった孤独や寂しさを、彼は全て掬い上げて、優しく受け止めてくれる。
人の気配に敏感な当麻が安心して眠れるのは征士の傍だけだ。
穏やかな寝息を立てている征士に、重ねるだけの口付けを施すと当麻もその隣に身体を横たえる。
「おやすみ、征士」
きちんと上を向いて寝ている彼の腕に身を寄せて呟き、目を閉じる。
高い体温に安心感を与えられ、心地よさにうっとりしてきた頃。
「……………へ…?」
意識がとろりとしてきた当麻を現実に引き戻したのは征士の力強い腕だ。
「え、ちょ」
上を向いていたはずの彼がいつの間にか自分の方を向き、器用な事に当麻の身体の下にも腕を入れて彼を抱き寄せてくる。
突然の事に当麻は抵抗する腕に力が入らない。
そんな彼に構うことなく征士の鼻先が短い髪を掻き分け、その耳元に寄せられる。
「お、おまえ、起きて…っ」
「…甘い匂いがするな……」
掠れた声が耳元で聞こえ、背中に甘い痺れが走るがそれに流されまいと当麻も必死だ。
「お前と同じ匂いだよ!シャンプーもボディソープも一緒だろーが!」
「だがいい匂いがする……何故だろうな」
言っている間にも征士の手は当麻の身体を撫で、声は官能を擽り続ける。
「甘いものは苦手だが、お前からする甘い匂いは好きだ」
「ちょ、ホント、ヤだって…!マジ、勘弁して…!」
甘く、しかししっかりと抱き寄せられ、高い体温と声に誘われ流されそうになる。
このままじゃ駄目だと、当麻も残る理性を必死にかき集めて逞しい胸を押し返す。
すると征士の動きが止まった。
自分の願いを聞いてくれたのだろうか。
そう思い彼の様子を伺う。
「…………寝とる…」
身体に回された腕だって納まりのいい場所を探していただけだったのだろう、今は落ち着き、征士は再び穏やかな寝息を立てていた。
寝惚けていただけなのかもしれない。
考えてもみれば、ジジイというわけではないが、もう若いと言える歳でもなくなってきている。
流石に5日連続というのは征士だって疲れるはずだ、明日も仕事はある。
それは解る。
それに最初から当麻だって今日はそれを望んでいた。
だとしても。
「…………襲えや…!」
何だか無性に腹の立った当麻は寝たままの征士から強引に腕を取り返すと、遠慮なくその頭を殴りつけた。
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でもまぁ、それで襲われたら襲われたで、ヤメロと言うんですけども。