その傍らにあること
当麻が急遽帰ってくるというので征士は空港まで迎えに行った。
今回の行き先はロシア。
暑い寒いを非常に嫌う彼が、最も雪が深くなるこの時期にロシアまで行ったのには理由があった。
旅行ではない。
かと言っていつものように研究に関する事でもない。
知り合いの葬儀に参列するために、彼はこの寒い時期にわざわざロシアまで出かけた。
相手の親族からの報せには葬儀の日時が記載されていたが、当麻の性質をよく理解していたらしいその故人の意思もあり、
参列はしてくれなくてもいい、ただ彼の事を覚えておいて欲しい、とだけ書かれていた。
遠慮ではなく、それが故人の当麻への優しさであり、報せを寄越した人の愛情だと征士にも解った。
けれど当麻はすぐに飛行機とホテルの手配を済ませ、簡単な荷造りだけをするとさっさと日本の冬より寒い土地へと発ってしまった。
尊敬している、大好きな人だったと、出発前に教えてくれた。
彼も当麻と同様に研究者の父を持ち、似た環境で育っていたという。
歳は一回りほど離れていたが、兄のようにいつも優しかったのだと。
そんな彼も父と同じく研究者となり、当麻と一緒のラボにいた事も何度かあったのを知ったのは、
打ち上げの写真を見せてもらったからだ。
ロシア人らしい、美しい、けれどしっかりとした体躯の青年だった。
そこに微かな嫉妬を抱いたのも、事実だった。
「当麻」
ロビーに姿を見せた青い髪の持ち主を見つけ、声をかける。
彼は向かう時に着ていた服ではなく、ネクタイだけは外していたが喪服のままだった。
葬儀後、すぐに向こうを出たのが解る。
本当は滞在は明日までのはずだった。
それを急遽予定変更したのだ。
彼を死に追いやったのは、癌だった。
征士も親戚を大腸がんで亡くしているので想像できるが、あの美しいロシアの青年も恐らくやせ衰えた姿に変わり果てていたに違いない。
きっとそれが当麻には耐えられなかったのだろう。
本来なら葬儀の後に、彼の部屋で彼の遺した物を彼が残した者たちと眺め、故人を語らう予定になっていた。
当たり障りのない事なら人付き合いでも何でもやってのける当麻だったが、それでもきっと、それさえも辛いほどに。
のろのろとした動きではあったが、きちんと自分の方向へ歩いて来てくれた事に征士は少なからず安堵する。
けれど当麻の姿に思わず息を飲んでしまった。
飛行機の中は暖かかったはずなのに、白く見える顔と、色を失くした唇。
綺麗な瑠璃色の瞳も、今はただの硝子玉のような薄っぺらい彩しか見せない。
それだけで彼の心の状態が見えた。
「当麻」
もう一度、今度は優しく声をかける。
当麻がそのまま征士の肩に頭を乗せ、背中に緩く手を回してしがみ付いた。
外では滅多とそんな行為に出ない彼だが、それが余計に今の辛さを物語っていて征士まで辛くなってしまう。
「とうま」
何と声をかけていいのか解らない。
声を殺してただ只管に泣いている青い髪を撫でてやる事以外に出来る事が見つけられず、
暫くそのままにしておいた。
当麻は一頻り泣き終えると、小さく、ゴメン、という言葉を口にした。
「何故謝る」
「…迎え、来させた」
「それくらい」
いつもの事だ。
そう続けようとして続けられなかった。
当麻を空港へ迎えに行くのは確かにいつもの事だった。
けれどそれは、研究のために海外へ行っていた時ばかりで、楽しかったと彼は笑顔で征士の元へ帰ってきていた。
今回のようにこんなにも傷ついた顔の彼を迎えに行くのは初めてだった。
いつもの事、と同列に扱えない、のは、きっと征士の中に僅かではあるが嫉妬がまだ燻っているからだ。
見せてもらった写真の中の故人は美しいプラチナブロンドの髪に、薄い紫の瞳をしていた。
いつか当麻が綺麗だと褒めてくれた征士のソレと同じ、彼の、ソレ。
何人も写っている写真の中で故人は当麻の肩に手を回し、とても親しい様子で微笑んでいた。
そこに自分と同じ感情などないのは解っていたが、それでも兄のようだったと言う当麻の言葉に胸がチクリと痛む。
自分が出会う前の当麻を知っているという彼。
どんな風に接していたのだろうか。
どんな風に彼と語らっていたのだろうか。
普通に女性の恋人をもっていたはずの当麻が最終的に男の自分を選んでくれたのは、何故だろうか。
馬鹿馬鹿しい事この上ないし、そんなものはただの偶然なのも解っていたし、何より今、当麻が立つことを選んだのは自分の傍だ。
それを解っているからこそこんな醜い想いは隠してしまいたい。
特に、今は。
「腹は減ってないか?どこかへ寄って帰るか?」
どちらのとも言えない辛い思いを消してしまいたくて、明るめの声で聞く。
泣いて赤くなった目元で少し考えてから、当麻も無理に笑顔を作ろうとして、そして失敗して。
「……今は、いいや」
また、つらそうな顔に戻ってしまった。
それからは無言のまま車に乗り込み、高速を使って、そして2人のマンションへ戻ってきた。
荷物を部屋に置くと、当麻はそのまま無言でシャワーを浴びにいった。
身体を温めることで冷えた心をどうにかしたいのだろう。
征士も黙って暖かい飲み物を用意してやる事にした。
大好きなココアがいいだろうか。
苦味のあるコーヒーがいいだろうか。
優しいホットミルクがいいだろうか。
色々と考えて、結局日本茶を淹れた。
もう、戻ってきたのだと、心の何処かで教えたかったのかも知れない。
寒いロシアではなく日本に戻ったのだと。
それに。
お前って外観を裏切って魂はすっげー侍だよな。
自分にそう言った当麻に、日本だと、此処も、そしてずっと傍にいるのが誰かも。
そう、伝えたかったのかも知れない。
普段通りロクに拭かれていない髪を征士が甲斐甲斐しく拭いてやる。
その間の当麻もいつものように俯き加減だったが、いつもと違って征士の服の裾をずっと掴んでいた。
寂しい。そう言われている気がして、そう思わせる存在が悔しくて、もう居ない故人にまた嫉妬してしまう。
「当麻」
手を止め、名を呼ぶ。
顔を上げてくれた。
顔色も、唇も、瞳も、もういつも通りに近かった。
それに安心してゆっくりと口付ける。
最初は額に、それから瞼を通って頬に。
最後に唇に触れ、そのまま口内を貪るように舌を差し入れる。
長い時間をかけてゆっくりと交わしたそれは、互いの唾液が混じりあい、粘度を増し、唇が離れる頃には糸を引いた。
「せいじ」
小さな声に耳を傾ける。
また当麻がしがみ付いてきて、顔が見えなくなった。
代わりに心臓の音が肌を通して伝わってくる。
「お前は、長生きしろよ」
故人は未だ、若かった。
そこに何を思っているのだろうか。
「お前は長生きして、美人薄命って嘘だったって笑わせてくれよな」
子供の頃から孤独を知る事が多かった当麻は、その身に染み付いて寂しがり屋なところがある。
人が離れてしまうのを見送ることしか出来なかった幼少期の経験も手伝って、時折顔を出すそれは強く当麻を苛むほどに。
だから。
「ならばお前も長生きをしろ」
「…?」
「お前のように不摂生でだらしない生活をしていても人は長く生きるものだという事を、私に思い知らせろ」
長く、永く共にいて、互いに最期の時まで満足であるように。
何度も命を失いかけるような戦いの中での出会いだったから余計にそう思ってしまう。
悔いも恐れも全てなく、ただ只管に幸せで、愛しくて、何にも替え難いこの日々は互いでなければ得られないのだから、
最期の時まで、互いに満足であるように。
「…………今って結構さ、医療技術も進んでるから、健康志向のお前ってすげー長生きしそうだな」
「そうだな」
「…歳取ってハゲたお前、見てみたいな」
「毛が多いと言ったのはお前だぞ?そう中々拝めんかもな」
「だから俺も頑張って長生きするって」
「そうか」
「うん。で、お前がハゲてきたら俺が超強力な育毛剤作るんだ」
「では私の禿げた姿は見れんぞ?」
「見てから使うんだよ」
「毛根が死んでそうだが間に合うのか?」
「そこは俺、天才だから」
「なるほど。優秀な研究者の恋人がいて私も幸せだな」
「だろ?感謝しろよ?」
「ああ」
「俺も」
「…?」
「感謝、してるから」
「……そうだな」
背中に回した手に力を込める。
そうやってお互いの存在を確かめるだけで、辛い気持ちも、暗い想いも、全て言いようのない幸福感に変わる。
それが今はただ嬉しかった。
こういう気持ちがこれからもずっと続けばいい。
そう思って征士は、傍にある耳元に口付けた。
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悲しくてもその気持ちの少しだけでも持ってくれる人がいる幸せ。