Una mano/En el caso de ”S”
憧れの先輩に渡すから、と言う妹に半ば無理矢理に連れられて来たのはデパートの一角だった。
いつもと違う雰囲気、いつもと違う熱気に包まれた場所は甘い匂いが充満している。
苦手なその匂いに征士は思わず顔を顰めてしまった。
「……一体何なんだ…」
「何って見れば解るでしょ?」
恋愛絡み(それは行事含んで)にとんと疎い兄を胡乱な目で見た妹は、彼の表情を見て溜息を吐いた。
本気で解っていないようだ。
「ほら、コレ」
そう言って手近にあったエスカレーター近くの幟を指差す。
幾つものハートと、それに囲まれた”Valentile”の文字。
漸く征士も理解したのか、ああ、と消えるような声で返事をした。
「それで?」
「それで?って何よ」
「だから、ここに来て先輩に渡したいものがあるという事は、そういう事なのだろう?」
「そうよ」
「………私は今日、荷物持ちとして連れて来られたと思うのだが…?」
部活もない日曜、家で寛いでいるところに荷物があるから一緒に来て欲しいと言ったのは妹の皐月だ。
長女の弥生ほどではないにしても、妹だって気は強い。だが幾ら気が強くとも力が強いというわけではないのだから仕方もないかと大人しくついてきた
征士は、目的のものがチョコレートだったと知って眉間に皺を寄せる。
この程度なら彼女1人でも充分持ち帰れるものだ。
「そうよ、お兄ちゃんは荷物持ち」
「一体何キロの物を買うつもりなんだ、お前は」
呆れて言えば妹が鼻で笑う。
それに今度は征士の眉がピクリと動いた。
「そんな馬鹿みたいに重たいもの、それこそ”重い女”みたいじゃない」
「だったら、」
「私、1つだけ買うなんて一言も言ってませんけど?」
「……………なに…?」
憧れの先輩に、バレンタインに渡すためのチョコレートを買うという妹の買い物は1つではない。
その意味が解らず立ち止まってしまった征士を置いて、皐月はさっそく近くにあったブースへと寄ると、ショーケースの中身を吟味している。
アレもいいな、こっちも可愛いし。なんて言いながら。
それを征士は驚いた顔のまま呆然と見つめていた。
憧れの先輩に、渡すチョコレート。
という事は、妹が今、好意を寄せている人物に渡すものなのだというのは解る。(そしてその存在が未だ”彼氏”ではないことも。彼女は態度に出易い)
だがそれは1つではない…?
どういう事だろうか。彼に幾つも渡すつもりなのだろうか。
それとも幾人にも渡すつもりなのだろうか。
確かに彼女が好きだと言う芸能人は短期間で変わっていくが、まさか現実の恋愛でも…?
「おにーちゃーん、これ、持ってー」
征士があれこれと考えている間に皐月は既に最初の買い物を済ませたらしい。
彼女の手にある店名の入った袋は中身がチョコレートという事を考えると、5個以上は入っていそうな大きさだ。
若干の眩暈を覚えつつ、征士は呼ばれるままに妹の下へと歩き出した。
「…お前は一体、何人に渡すつもりなんだ…」
既に袋は5つになり、凡そで中身の数は20個ほどだ。
幾らなんでも気が多すぎではないのかと暗に言えば、立ち止まった妹は最初はきょとんとして、それから何かに気付くと兄を嘲笑うような表情になった。
「え、お兄ちゃん若しかしてソレ全部、本命チョコだと思ってるの?」
まさかねー、と口では言っているが表情は明らかにその”まさか”を読み取って、考えも感覚も古すぎる兄を笑った。
「………違うのか…?」
「今時、チョコは本命だけっていう感覚がないわよー」
「…………………………そうなのか…?」
「そうよ。義理チョコやお世話になった人は勿論、友達とか、…それから自分用っていうのも今はあるんだから。知らないの?」
「…………………初めて知った」
「お兄ちゃん、ふる…………」
いつものように、古い!と笑おうとして皐月は言葉を止めた。
そう言えばこの兄は昔から非常にモテる。家族からすればただの堅物の変人だが、それ以外からすれば一本筋が通った男気溢れる人物に映るらしい。
そんな兄は生まれてこの方、本命チョコしか渡されたことがない。(受け取ったこともないようだが)
その彼からすればバレンタインのチョコレートは即ち、それに背を押されて告白する為の小道具という認識しかないのは、
ある意味仕方がないのかもしれない。
それに気付いて皐月は言葉を呑んだ。
その代わりに溜息を1つ零す。
「ま、そういうモンなのよ。ほら、こういう時期じゃなきゃ買えないものもあるのよ?」
「何故?」
「何故って……バレンタイン限定のものとか、普段は海外でしか買えないものとか、そういうので購買意欲を煽ってるのかな?」
「……そうなのか」
甘いものが得意ではない征士からすれば、どれも形が違うだけでそう差があるようには見えない。
だがどうも世間はそうではないようだ。
どうにも解らないが、今は再び歩き出した妹の後を追おう事に意識を向ける。
でなければ甘い匂いに誘われた思考は、意識的に見ないようにしているある感情を探し出そうとしてしまう。
それだけは避けたい征士は足早に妹に追いついた先で、ふと目に入ったショーケースの前で足を止めた。
「………これは…?」
「そちらは惑星をモチーフにしたものになります」
征士の呟きを聞き取った店員がすかさず説明をしてくれる。
横長の箱に収められた9つの球体はカラフルで、一見してそれがチョコレートだとは征士には解らなかった。
惑星と言われ、征士の視線が左から3つ目のものに留まる。
青いそれは、まるで。
「……………」
甘いものが大好きで、屁理屈をこねて、風のように気侭でそして中々素直になってくれない、天邪鬼な軍師。
その人にとても似ていて、征士は目を瞠った。
彼と知り合ったのは鎧玉に導かれて辿り着いた、新宿での戦いの場だ。
心も命も見失いそうなあの戦いの中、気付けばいつも傍にいた彼は、今はもう自分同様に生まれた地で普通の日常を送っている。
連絡先は聞いていたから年賀状の遣り取りはした。だが必要以上に連絡をしないのはどうやらお互いの性格だったらしい。
お陰で今、彼が何をどうして過ごしているのかは知らない。
両親が離婚している上に親権を持つ父親も仕事場から滅多に帰っては来ないという彼は、殆ど一人暮らし同然の生活を送っているという事だけは
本人から聞いて知っている。
だが、今彼が何をというのは知らない。
ちゃんと食事は摂っているのだろうか。朝は起きているのだろうか。学校はサボらず通っているのだろうか。
気付いてしまうと色々と気になってくるのは、屋敷で過ごした短い期間に同室だったせいだと何度も征士は自分に言い聞かせようとしたが、
いつものように失敗に終わった。
不意に見せる寂しそうな背中、人との距離に戸惑う姿、そして自分よりも細く肉の薄い手。
彼を気にかける事について必死に自分の中で理由をつけようとしても、それらを思い出していつも息が詰まりそうになる。
理由は簡単だ。
だって自分は。
風、そして大気を司る彼は一時、宇宙を漂っていた。
その彼の髪は空に似て青く、瞳は瑠璃色と謳われる星のようだった。
それを見せ付けるかのような、青い、丸い、チョコレート。
「これは………甘いのですか…?」
そう口にしてから征士は自分の質問が愚問だと気付き、耳まで赤くなる。
チョコレートだ、甘いのは当然だ。
あまりに突然の質問に店員は驚きに目を丸くし、珍しくチョコレートに熱心になっている兄の様子に妹は遠慮なく噴出した。
チョコレートは甘い。
それは解っている。だが征士が聞きたいのはそういう事ではない。
これは、他の物よりも甘いのだろうか。
例えば甘いものが大好きな人間に贈っても満足してもらえるほどに、甘いのだろうか。
それが聞きたかっただけだ。
だがそれを今更言うわけにもいかず、征士はただただ俯いた。
「お兄ちゃん、それ自分用?」
帰宅途中の電車の中で妹が興味津々に尋ねてくる。
「………世話になった人間に贈っても構わないのだろう?」
ラッピングを依頼した時点で誰かへの物だという事を解っていながら聞いてくる妹に、征士は少しだけ睨みつけてから素っ気無く答える。
皐月はその視線をさらりと無視して、ふーん、と袋の中を覗いた。
「だからってチョコレートを選ぶなんて想像もつかなかったな」
「少し興味を引かれただけだ」
また、素っ気無く。
甘いものが大好きな軍師に世話になったのは本当だ。
妖邪界に捕らえられた時、自分の命を危険に晒してまで助けに来てくれたのは彼だ。
その礼だとして贈っても構わないだろう。
そこに、隠した自分の想いを込めて贈っても、構わないだろう。
「だからって自分も食べてみようと思うなんて、本当、意外」
「それは…」
結局あの惑星をモチーフにしたチョコレートを、征士は2つ購入した。
1つは遠く離れた彼に。
そしてもう1つは、…自分用に、と。
1つは綺麗にラッピングをしてもらい、そして自宅用にしたもう1つは綺麗な箱に入ったままの姿で袋の中に入っている。
彼が口にするものと同じ味を、自分も口にしたい。
そう思った瞬間、征士はその考えを自分の中で反芻するよりも先に「それを2つ下さい」と店員に伝えていた。
「…何も吐くほど嫌いというわけではないのだ。美味しいと言われれば、少しくらい食べたいと思ってもいいだろう」
窓の外に目を向けながらの答えに納得したのかは解らないが、妹はそれ以上何も聞いてこなかった。
妹の買い物から数日が過ぎた。
あの日に買ったチョコレートを渡したい日は、明後日。
万が一の事を考えて、征士は2日前の今日に、大阪宛の荷物を宅配サービスの営業所へと持ち込んだ。
自宅に集配に来てもらうという手もあるのだが、そんな事をすれば家族にあれこれと詮索されるのは解りきっていることだ。
密やかな思いを込めた贈り物は、ひっそりと彼の手へと渡って欲しい。そう願う征士は、その思いを胸に学校帰りに実行した。
住所は知っている。
電話番号は聞いていたが、声を聞くと自分の中で蓋をした感情が抑えられなくなるのではないかと危惧して、かけた事はないが知っている。
名前に至っては当然だ。
だがその名を書くだけなのに、年賀状を書いたあの時よりもペンを握る手が震えた。
どうか彼がこの想いには気付きませんように。
そう願いを込めて征士は、彼への送り状に不恰好に震えた文字を書いた。
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2012.02.01-2012.03.14まで期間限定でオープンしていた企画参加時に書かせて頂いたお話。
他の方の出したお題で書くというドキドキものでした。
頂いたお題は『手』。
震える手、で書かせて頂きました。
征士の、きっと初恋。
今は惑星の数は減りましたが、彼らが高校生の頃はまだ減ってなかったなという事で、9個のままです。