いとしい日
寝癖頭のままリビングに姿を現した当麻に、征士は優しく笑いかけながら「おはよう」と言う。
すると当麻も同じようにムニャムニャとした口調で「おはよう」と返す。
当麻も今日で39歳。
四捨五入するまでもなく40代はもう目の前だというのに、普段から垂れている眦をへにゃりと下げて笑う姿は征士の目には大層愛らしく映り、
それを見た征士自身も、外では決して拝めないような優しさに溢れた笑みを返す。
その後ですぐ、手に半熟目玉焼きの乗った皿を持ったままで改めて姿勢を正し、今度は朝の挨拶よりも丁寧に言葉を意識して、
「当麻、誕生日おめでとう」
と、今朝初めて祝いの言葉を伝える。
生まれてくれたことを感謝すべく、眠りの中にいる恋人に向けて毎年密かに言葉をかけてはいるが、面と向かって言うのはいつもこのタイミングだ。
何せ恋人の当麻は恥ずかしがり屋で天邪鬼なものだから、ストレート過ぎる思いを朝から正面切って伝えると赤面するのは解っているし、
下手をすれば恥ずかしさのあまり、天照の如くベッドから暫く出てきてくれなくなる可能性だってある。
折角の当麻の誕生日だ。征士としては少しでも長く一緒にいたい。
その為に、征士は毎年この日ばかりは何があっても休みを取っている。
恋人の誕生日。2人でたっぷり過ごしたいではないか。
そんな日に、天岩戸になられては堪ったものではない。
だから征士はいつも、自分でさえも重く感じる愛情は眠っている姿に密やかに伝えている。
と、思い込んでいるのは実は征士だけで、その真摯な思いは生活を共にした最初の年からずっと当麻に盗み聞きされていることを知らない。
知れば、案外征士のほうが赤面してベッドから抜け出せなくなるかも知れない。
そんな事はさて置いて、兎に角。
征士は未だにパジャマ姿の当麻に、椅子を勧める。
今年の10月10日は平日だが、2人に取っては特別な日。
ゆっくりと朝食を取る事にした。
「当麻、今日はどうやって過ごす?」
コーヒーを手にしながら征士が尋ねる。
その問い掛けに当麻の手はベーコンを口に入れる手前で止まり、視線だけで天井を見た。
「えー……あー、そう、だなぁ………………」
当麻に、特にしたい事はない。
素直に言うのなら、征士と居られるのなら何だって良いし、どこだって良い。
ゆっくり、のんびり、敢えて注文をつけるのなら誰にも邪魔されずに過ごせれば良い。
だが当麻は素直にはそう言えないので、取敢えず、と口を開く。
「日当たりの良い場所でボーっとしたいかな」
「リビングでの二度寝を言っているのなら、却下だからな」
何気なく天井から床に落とされた当麻の視線を辿っていた征士は、先に告げた。
征士の添い寝で、という事を交渉条件に入れて二度寝の許可を取ろうかとチラリとでも考えていた当麻は、ちぇ、と舌打ちをする。
自宅なら人目も憚らずくっついていられるし、今日のように天気のいい日なら窓を開けておけば快適に眠れるというのに。
「二度寝は駄目か…」
「お前は寝てしまうと中々起きんだろう?幾らお前の誕生日とは言え、私だってこの日に休みを取っているんだ。
なのに1日の大半をお前の寝顔を眺めて過ごすだなんて寂しすぎる休日を過ごしたくはない」
「昔は俺の寝顔を見てるだけでも幸せだって言ってたくせに」
「普段のことなら、今でも充分それで幸せになれる。だが今日は違うだろう。お前の、30代最後の誕生日なんだぞ。折角だから出かけないか?」
自分を堅物だと思い込んでいる征士は、実は無自覚にロマンチストだ。
何かにつけてお祝いだアニバーサリーだなどと言い出しはしないが、流星群を観る時は必ず1枚の毛布に2人で包まろうとするし、
手に口付ける時は決まって左の薬指だ。
それを当麻が面倒に思う事はないが、それでもロマンチストだよなとは毎回思ってしまう。
その征士からすれば、30代最後の誕生日は何が何でも特別に祝いたいらしい。
20代最後の時ってどうだったっけ、とぼんやり考える当麻の視線はベランダ越しに見える青空に向いていた。
「30分700円で別れさせられちゃ、たまったモンじゃないよなぁ」
「そんな下らん都市伝説への感想は要らんから、お前も漕げ」
運転席の視界を遮るかのごとく備え付けられた白鳥の頭部を鬱陶しく感じながらも、征士は懸命にペダルを漕いだ。
ペダルの軋む音の合間から掻き分けられた水の音がパシャパシャと聞こえる。
「公園に行きたい」
当麻が征士にそう言ったのは、昔、家族で(それもちゃんと父も母も揃って)出かけた公園を思い出したからだった。
あれは確か秋の頃で、天気も良かった。公園には池があって、そしてそこには貸しボートがあった。
家族3人で乗ったボートは特別な事は何も起こらなかったが、特別に楽しかった。
あの日の事を思い出した当麻は、知らず薄い笑みを浮かべていた。
公園に行きたい。それから、ボートに乗りたい。
そう言った当麻があまりに嬉しそうな顔をしていたので、頷いた征士は朝食の片付けを済ませるとすぐに家を出る事にした。
散歩がてら駅までを歩き、急ぐ理由も無いので各駅停車の電車に乗り込む。
空いた車内で他愛のない会話を楽しんでいるうちに、目的の駅はすぐにやってきた。
朝の早い時間だったお陰で、まだ公園に人は疎らだ。
まだ誰にも借りられていないボートが、桟橋に繋がれている。
種類は少ないが色だけは豊富なようで、その中から当麻がどれを選ぶのだろうかと考えながら、征士もボート小屋へと足を進めた。
そう言えば2人きりでボートなんて初めてかもしれない。
そう思うと征士も浮かれてきていた。
オールはやはり自分が漕いだ方がいいだろうか。
向かい合って池の中央で少し休憩して、普段と変わらない会話を楽しもうか。
なんて考えながら。
しかし実際に2人が乗っているのはスワンボートだった。
当麻だって最初は征士と同じで普通のボートしか考えていなかった。
だが桟橋にスワンボートを見つけた瞬間、心は白鳥達に囚われてしまった。
何故なら子供の頃から見たことはあれど乗ったことがない。昔に乗ったのは普通のボートで、父親がオールを握っていた。
普段ならもういい歳だしと恥ずかしく思うだろうが、今日は自分の誕生日だ。
余程でなければ我侭を聞いてもらえる日でもある。
そうなると、もうこれしかないだろうと当麻の心踊り、その勢いで係員に声をかける。
そして唖然とする征士を振り返り、もの凄く嬉しそうな顔で手招きをしたのだった。
だから今、池には男2人を乗せたスワンボートが浮かんでいる。
長身の男が2人、窮屈そうに足を折りたたんで乗っている姿は滑稽でしかない。
デートという素敵な場で、何が悲しくて(数が少ないとは言え)他人に笑いを提供しなければならないのか。
でも仕方がない。今の当麻はそれが楽しくて仕方が無いのだから。
それが解るから、少しでも沢山の景色を恋人に見せようと、征士も懸命にペダルを漕ぐのだった。
ボートに乗って、芝生に寝転んで、売店で買って来たヤキソバやフランクフルトをビールで流し込む。
真面目な顔で世界情勢を語ったり、同じ顔のまま当麻の贔屓の野球チームが如何にすれば優勝できるかという事を話したり、
2人の関係を匂わすような際どい会話をしてみたり。
穏やかな時間は日常よりもゆっくりと、けれど確実に過ぎていく。
薄着で寝転がり続けるには少し肌寒いような気がしてきて携帯電話で時間を確かめると、既に時間は5時になろうとしていた。
「……どおりで寒いわけだ」
「お前は寒がりだから特にそうだろうな」
「そういうお前は寒くないのかよ」
「誰かさんが選んだボートのお陰で汗をかいたから、少しは寒いな」
「強がるなよな。……じゃ、…………帰る?」
「そうしよう」
もう少しここで過ごしていても良いような気もするが、腹も減ってくる。
昨夜のうちに今夜の夕食の仕込をしていないし、2人揃って出かけているから勿論、家に帰っても何もない。
これから作るとは考えられないから、恐らく今日は外食だろうと当麻はあたりをつける。
そうだとすれば汗をかいた服のまま征士が出かけるとは思えない。
一旦帰って着替えるか、時間があればシャワーくらい浴びる可能性もある。
だったらそろそろ帰っておかなければならないだろうと思い提案すると、征士はすんなりと同意した。
やっぱり今日は外食かな。
そういえば家にはケーキもなかったな。
食事の帰りに買って帰るか、そうじゃなかったらこれからの帰り道で買うのかな。
そんな風に考えているうちに、電車の中では眠ってしまった。
2人の家がある最寄り駅で征士に起こされ、目を擦りながら歩く。
ふと思い出したのは、子供の頃にボートに乗ったあの日も帰りの車で眠って母親に起こされたことだ。
あの時と似た事を、今は違う”家族”と繰り返していることが嬉しくて、当麻は1人で笑みを噛み殺した。
マンションのエントランスに入って1階の集合ポストから夕刊や郵便物を引き抜く。
エレベーターの中では、さあ今日は何を食べようかな、と考えていた当麻だが、愈々玄関の前に立った時にその表情は一転して曇った。
微かにだが、家の中から人の気配がする。
眉間に皺を刻んで鍵を開ける征士に目配せしたが、ドアノブに手をかけた征士は酔いを僅かに残した表情で微笑むばかりだ。
強盗の可能性もあるというのに何を笑っているのかと、当麻は眉間の皺を更に深めた。
なのに征士はやっぱり笑ったまま、当麻の腰を抱き寄せて先に入るよう促す。
あまり顔色は変わっていないが、どうも征士はかなり酔っているようだ。
これじゃあ、役に立たないな…
万が一掴み合いになった場合、近接戦が得意なのは征士なのだがこの調子では無理だと諦めて、当麻は征士の手からドアノブを取った。
今の征士の様子だと、ご機嫌な勢いでドアを開けかねない。
奇襲の意味も込めてそれは避けたいので、当麻は極力音を立てないように玄関ドアを開けた。
「あ、帰ってきた!」
「おかえりー、早かったね」
だがリビングにいたのは強盗でも何でもなくて、見慣れた仲間が3人。
何故彼らがここにいるのかが解らず当麻は立ち尽くし、はたと我に返って恋人を振り返れば、征士が(彼にしては満面の)笑みを浮かべている。
まさかと思ってもう一度リビングに顔を向けると、夢や幻ではなくてやっぱり遼も秀も伸もいる。
驚いて未だ固まったままの当麻を笑った秀が胸を張って、周囲に目配せをした。
「よっしゃ、んじゃ……せーぇ、…っの!」
とうま、誕生日おめでとう!
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2012.10.01-2012.11.08までオープンしていた企画に参加したお話。
前と後ろからのサラウンドで。