蜘蛛の糸
土曜日の授業を終えた純が大きな荷物と共に柳生邸にやってきたのは昼の3時のことだった。
今回は泊りがけで遊びに来ている純の大きな荷物の中から、秀が「あーこれ懐かしいなー」と言って取り出したのは、国語の教科書だった。
「俺らん時と表紙変わったけど、載ってる話は同じのもあるなー」
「え?そうなのか?どんなのがある?」
パラパラと捲る秀の手元を遼が横から覗き込んだ。
所々に赤い線が引かれている。大事な文章なのだろう。
国語の教科書に引かれるラインはここがこの話の主題だとか、ここに主人公の心情が表れているとか、そういった事を
指し示すことが多い。
その他にもある段落の上には「1」や「2」といった風に数字が打たれている場所もあった。
「……?何だこりゃ」
「なぁ、純。この数字、何だ?」
兄2人に聞かれた純も背伸びをしてその手元を覗き込む。
成長期が来て更に体格が良くなった彼らと違い、純には未だ成長期が来ていない。
元々小柄だった純は、兄達の手元を覗くだけでも背伸びが必要になっていた。
それに気付いた秀がさり気なく弟分にも見えやすい位置まで教科書を下げる。
漸く見えた数字に、純は「ああ」と得意げに頷いた。
「コレ、起承転結の区切りがどこかをディスカッションした時の形跡だね」
「ディスカッション?何だ、ソレ」
「議論のことだよ」
聞きなれない単語に首を捻る秀の後ろから、当麻の声が聞こえた。
振り返ると今日のごろ寝場所をラグに選んだ智将がだらしなく寝そべっている。
「議論って……今の小学校ってそんな難しい事をするのか?」
硬い響きを持つ言葉に遼が些か引いている。それを見て当麻が「そんな難しいことじゃない」と笑った。
「でもお前、議論だろ?」
「言葉に引っ張られんなよ。議論ってったって、お前たちも似たようなことしてきただろ?」
「したかぁ?」
「してるって。ホラ、例えば句読点のない一文を見せられて、じゃあこれはどこで区切るのがベストか、みたいなの、やらなかったか?」
「やったっけ…?」
「簡単なところだと、じゃあこの意見に賛成のひとー、ってやるだろ。アレもそんな感じ」
教師が提示した問題に、生徒がそれぞれに挙手して自分の考えを発表する。
何パターンかの意見が出たところで、今度は他の意見を聞いた後でもう一度改めて考えさせ、またそれぞれに何故そう思うのかを
意見発表させあう。
そうする事で精度を上げ、同時に子供たちは議論する場に慣れていく。
それを当麻が例としてあげると漸く秀も思い出したのか、ああ、と丸い目を更に丸くして納得した。
「なるほどな!それなら俺も覚えがあるぜ!」
「つまり純はその区切りをこうして書いていってたんだな?」
「そう」
遼が聞くと純も嬉しそうに頷く。
久々に兄達と過ごせることが嬉しいらしい。
そこにまた秀の「あ、」という声が上がった。
「今度は何?秀兄ちゃん」
「これ、この話」
秀が再び教科書を純に見せる。
「…?……これがどうかしたの?」
そこにあったのは、地獄に落ちたとある盗賊が、生前に一匹の蜘蛛を助けが事により釈迦に救いの糸を垂らして貰う話だった。
その盗賊は垂らされた糸を頼りに地獄からの脱出を試みるが、後をついてきた他の亡者に「これは俺の糸だ」と自分だけ助かろうとしたがために、
糸が切れ、結局地獄に舞い戻るという有名な話だった。
その話を見つめる秀の眉間に皺が寄る。
それを見た伸が首を傾げた。
「何?どうかしたの?」
「いや………蜘蛛の糸の話、あんじゃん」
「蜘蛛の糸…?芥川龍之介の?」
「あ、これ”あくたがわ”っつーんか。おれ、ずっと”ちゃがわ”って読んでたわ」
「…………キミねぇ…」
「まぁまぁ、今はそういうコトは置いとこうぜ。それよかよぉ…俺、この話、ちょっと気になるんだよなぁ」
「何が?」
「だってよぉ、コレ、蜘蛛の糸切れたんだよな?」
「そりゃ落ちたんだからそうだろうね」
「…………………………何でだろうな」
「そんなもの、本人の性根が腐っていたから釈迦に見放されたに決まっているだろう」
そこにさっきまで黙っていた征士も加わる。
自分だけ助かろうという男の自業自得と言えば自業自得の話だ。
この手の話しに征士もある程度厳しいものがあるのだろうか、若干、声が鋭くなっている。
「いや、それは解るんだ。俺も小学校ん時に習って、センセにそう教えてもらったから」
「じゃあ何が気になるってのさ」
「…もっと他に可能性ってなかったんかなって」
「可能性?どんなの?」
純は首を傾げた。純粋な目だ。
それに比べて伸と征士は何を馬鹿なという目を向けている。
それを気にもせず、秀は言葉を続けた。
「だからさ、この…何だっけ、……ガンダーラ?」
「そりゃインディアにあるっていうユートピアだ馬鹿。カンダタ」
相変わらず寝転がったままの姿勢で当麻が言う。
馬鹿と言われたにもかかわらず、正解を得られた秀は嬉しそうに手を叩いた。
「そー!そうそう!そんな感じの名前だった!その、カン……なんて?」
「カンダタ。そのカンダタがどうした?」
繰り返し名を教えた当麻が先を促すと、秀は頷く。
「そうそう、カンダタ。だからさ、蜘蛛の糸が切れたのは、単にカンダタが重かったからって可能性はねぇのかなってーコトよ」
「何を馬鹿な」
「キミ、読解力ないね、ホント」
秀の言葉に伸と征士は呆れ果ててスッパリと切り捨てる。
聞いていた純も少し困ったような顔をしていた。
だが秀のすぐ横でその話を聞いていた遼は、途端に目を輝かせた。
「秀もそう思った!?」
どうやら遼も同じ疑問を持っていたらしく、仲間がいた事に素直に喜んでいるらしい。
「おうよ!」
そして秀も。
その姿に伸は、思わずコメカミを抑えた。
毎回テストで苦しんでいる2人だが、ここまで読解力や思考能力が酷いとなると、その面倒を見ている当麻の苦労が忍ばれる。
当麻、キミって案外忍耐強い子だったんだね…
そう思うと、だらしなく寝転がっているだけの当麻が、涅槃に入る釈迦のように見えてくるから不思議だ。
伸はこっそりと心の中で拝んだ。
「あのさぁ、お兄ちゃんたち……幾らなんでもそれはないんじゃないの?」
喜ぶ2人に水を差したのは純だった。
眉尻を下げて呆れる弟分に、遼と秀は同時に首を傾げる。
「何で?」
「だって可能性はなくはねぇぜ?だってお釈迦様は落ちてったガンダーラ」
「カンダタ」
長年染み付いた覚え違いの名をつい口にすると、後ろから当麻が修正してくる。
相変わらず体勢だけは涅槃に入りそうなままだ。
それに秀がまた頷いて返す。
「そうそう、そのカンダタが落ちてって、性根はかわんねぇなって嘆いたみたいには書いてあったけど、お釈迦様が蜘蛛の糸を切った、とは
書いてなかったんじゃなかったっけか?」
「それはそうだが、そんなもの少し考えれば解るだろう。釈迦はカンダタという男にチャンスを与えたが、本人が棒に振った。
カンダタに相応しいのは地獄だったのだ。仕方ないだろう」
秀の意見に対して征士はキッパリと、模範的な考えを述べた。
だが秀だってそれくらいは解っているのだ。授業で学んだのだから。
ただそれは彼の中にある可能性を否定するには不十分なのだと秀は感じているらしく、不満のある顔をした。
「何だい?じゃあキミは本気で重さに耐えかねて糸が切れたって考えるっての?」
「でも可能性はゼロじゃないだろう?」
馬鹿馬鹿しいと伸が言うと、遼が食いついてきた。
文章として書かれていない部分ではあるが、読み取れば解ることだと伸は思っている。だが、遼もソレでは納得が出来ないらしい。
どう説明すれば彼らは納得するのかと考えて、また当麻を心の中で拝んだ。益々釈迦に見えて仕方ないのだ。
するとその釈迦、もとい、当麻が涅槃に入るのを取りやめたらしく、体を起こす。
「よし、じゃあその説の立場をもっと強くするために、仮説を立てようか」
「………仮説?」
「そう、仮説。まず必要なのはカンダタや他の亡者の平均体重だ。蜘蛛の糸の強度も考える必要はあるかもしれないけど、
実際の蜘蛛の糸は人が触れただけでも切れるくらだから、本来なら脆い。でもカンダタが登れるくらいの強度を考えると、これは普通の糸じゃない。
お釈迦様の力で強くなってるって仮定して、これは考える対象から外そう。神だの仏だのの力は科学じゃ証明できないしな」
そう言うと、当麻は手を微妙な位置でひらひらとさせた。
気付いた純が持ってきていた自分の荷物の中から、ノートと鉛筆を差し出す。
受け取った当麻は短く礼を言うと、床の上にノートを広げて秀と遼を近くに呼んだ。
「本の中でカンダタの体型についての記述はない。だからここは書かれた時代の平均的な男の体型を基準に考えよう」
「うん」
「おうよ」
「この本が出たのは1918年。大正7年だな。この時代で考えると、大体の予測で男の身長は155cmから158cmと考えるのが妥当だろう」
「え、そんな小さいのか?」
「この時代はそんなモンだ。戦国時代じゃ170cmの信長でも大男扱いだったって言うからな」
「じゃあ俺らってデカイ方になんのか。当麻なんか大男どころじゃねぇな」
「そうなるな。話を戻すぞ」
おもしれー、と笑い出した秀に当麻も同意しつつ、軌道修正して話を戻す。
秀の視線がノートに向いたを確認して、当麻はカンダタの身長を156cmと仮定した。
「で、体重だけどそれも記述がない。これは食料状況や生活環境でかなり左右されるから身長みたいに絞るのは難しい。
だからもう単純に身長から105を引いた数字を体重にしよう」
「100じゃ駄目なのか?引くの」
ハンパな数字に遼が尋ねると、当麻は鉛筆でカンダタの名前をぐるりと囲んだ。
「カンダタは盗賊だからな。ある程度身軽である可能性が高い。しかも盗賊を続けてきている事からそこそこの筋力と体力がある。けど、身軽。
でも女じゃないから骨はデカイ。だから105くらいを引いておくくらいが良いと思う。どうだ?」
105と定めた理由を述べてから遼の意見を聞く。
すると当麻のその理由で納得が出来た遼は大きく頷いた。
「よし。じゃあこれでカンダタの体重が51kgって出たな。俺たちから考えると軽いな」
「うん」
「さあ、じゃあ考えるぞ。蜘蛛の糸はカンダタが上り始めた時点では切れてない。つまり、51kgなら許容範囲内って事だ」
カンダタの名前の下に身長と体重が書き込まれる。
遼と秀は真剣な眼差しで当麻の字を追った。
「さあ、じゃあそのカンダタが登ったはいいけど、後をついてきた亡者の数はどれくらいって書いてたか覚えてるか?」
当麻は2人に向けて聞いたが、聞かれたところで何年も前に習った内容だから覚えてなんかいない。
そもそも距離の記述があったかどうかも曖昧だ。
首を横に振った2人を見て当麻はペン先でノートを軽く叩いた。
「教科書があるんだから、読め」
そう言った当麻の眉間に皺があるのを確認した2人の視線は急いで秀の手にある教科書に降りる。
そして人数に関する記述を必死に探した。
「…あ」
遼の声だ。
そちらに当麻の目が向けられる。
「これ、…?何百とも何千ともっていうの…」
遼が指した場所には確かにそう書かれていた。当麻が頷く。
「そう」
「でも曖昧だな…」
「面倒だから、ここは亡者が千人とするか。数字の区切りもいいし」
「うん」
「そうしようぜ」
先ほど当麻は前提条件として、カンダタの身長や体重の話を出したことから、恐らく何かしらの計算をさせられるという予感のあった2人は、
千という区切りのいい数字を出されてほっとする。
案の定、当麻はカンダタの体重をくるくるとペンで囲み始めた。
「さーて、じゃあここで問題。亡者ってどんなイメージがする?」
だが話はまず亡者に向いた。
亡者。と言われて遼と秀はそれぞれに考え込む。
その後ろの方で純も、そしてさっきまで遼と秀の考えを何を馬鹿なとしていた伸や征士も、腕組みをして考え始める。
「…………何か…ガリガリ?」
遼だった。
「腹だけ出ててな」
続いたのは秀だ。
「腕は筋肉さえない感じだよね、何となく」
伸も口を挟んだ。
「背骨が曲がっていてみすぼらしい体型だな。力が上手く入るようには思えん」
征士がそう言うと、
「背もあまり高く無さそうだよね」
と純も言う。
それらの意見を聞いて、当麻は頷いた。
「そうだよな、そういうイメージだよな。でもコイツもカンダタも、全員同じように地獄にいたんだよな」
「そうだね」
声を出したことで、さっきまで遠巻きに様子を伺っていた伸もすっかり参加している。
「て事は、亡者っつってもカンダタと同じ人間って事か?」
秀がそう言うと、その可能性が高いと当麻が頷いた。
「じゃあ平均とって、カンダタと同じくらいの体重で計算した方がいいのか?」
既に逸っている遼は前のめりの姿勢になっていた。
すかさず秀が鼻息を荒くして、自信たっぷりに手を上げる。
「んじゃあ、単純に考えて、蜘蛛の糸にいた奴らの総重量は、5100kgだな!」
「違うって秀、カンダタもいるから5151kgじゃないのか、その場合は」
嬉々として答えを上げた秀に、遼がすぐに訂正を入れる。
亡者の数は1000。そこに肝心のカンダタは入っていないのだ、と。
「……51,051kgだ、馬鹿者…」
だがその彼らの遣り取りは、あきれ返った征士の声で切り捨てられる。
亡者の数は1000。だったら正しくは亡者だけで、51,000kgになる。
それが正解なので当麻は笑いながら、征士の言うとおり、と遼と秀の鼻先を軽く弾いた。
「…ってぇ…」
「…間違えた…」
「そうだな。落ち着いて計算しろよ、それくらいは。…で、話を戻して、蜘蛛の糸にいた連中の総重量は51,051kg。重いな」
「……重いな、凄く」
「重すぎんだろ、これ…」
改めて数字として聞くとあまりに大きな数字は、実際の重量としての想像がつかない。
ただ解る事は。
「そりゃ蜘蛛の糸、切れるわ」
秀が納得すると、その鼻先に当麻がペン先を向ける。
「切れるな。でもそれってもっと早い段階で切れそうじゃないか?」
「え、でも当麻、最初に言ってたじゃないか。お釈迦様の力で糸が強くなってるって仮定しようって」
「そーだぜ、お前、言ってた言ってた」
自分たちの説も有り得ると思っていた彼らは、当麻の意見に反応する。
確かに当麻は最初に言っていた。
お釈迦様の力だ、考える対象から外す、と。
「強度について考えるのをやめただけだ。計算の基準にする部分が曖昧すぎるから」
「何だよ、それ…」
「出せないもんは出せない。でも解ってる事はあるだろ?蜘蛛の糸は、重量が5万を超えてもまだ無事だった」
「…おう」
「でも糸は切れた」
「…重量オーバー?」
「お釈迦様が極楽から垂らした糸なのに?」
「……………それが、都合よくカンダタの上で…切れた………」
勢いを失った遼の声は、小さくなっていく。
切れた、と言ったが最後は語尾が疑問系に近くなっていた。
「切れた、………ってーより、切った…?」
秀が伺うように言うと、当麻は、うーん、と唸る。
「そっちの方が可能性が高いだろ」
「重量オーバーよりも、説得力があるって事か?」
「そういう事」
「なるほど、だからカンダタのすぐ上で切れたのか。お釈迦様が切ったから」
「そう考える方が自然だな」
「っはー、なるほどなー!やっと納得がいった!確かに千人の亡者が上がってきて5万超えた重さがかかってんだ、そりゃ切れるわな!」
ある程度具体的な数字を提示されたことで漸く納得が言ったらしい秀は、すげー!と声を弾ませている。
隣にいる遼は教科書に目を落とし、そうかー、としみじみと噛み締めていた。
「ま、そういう事だから、蜘蛛の糸はカンダタに失望したお釈迦様が切った、ってのが国語の問題に対する答えとして適切だろって話だ。
糸の限度を超えたって事で考えようと思ったらさっきみたいに仮説だらけになって、いつまでたっても結論出ないんだし」
はい、話はオシマイ。
そう言うと、当麻は純にペンとノートを返し、再びごろりとラグに転がった。
「結局、結論がそうなるというのに随分遠回しな話だったな」
「でも2人とも納得できて良かったじゃない」
征士が溜息と共に言う。その横で伸はくすくすと笑った。
確かに遠回りでは合ったが2人は納得が出来たし、結構面白い話でもあった。
てっきり合理主義の当麻なら「馬鹿だな」という一言で一蹴するかと思っていたのだが、なかなかに優しい。
いや、元より優しいという事は仲間の誰もが解っている。ただ恥ずかしがり屋で不器用なだけだという事も。
それに長兄次兄の2人が感心していると、涅槃に入る釈迦、もとい、当麻が寝転んだままの姿勢で鼻で笑った。
「ま、そんなアホみたいな考え、話見た瞬間に仮説立ててそりゃナイなって思うのが普通だけどな」
俺は小学生ん時に既にその結論に達してたね、と言う末弟の背に、秀が投げた教科書(勿論、純の)が飛ぶ。
真っ直ぐに飛んだ教科書は、その角から見事に当麻の頭にぶつかって床に落ちた。
当然、すぐに当麻も跳ね起きて振り返る。
「ってーな!何するんだよ!」
「うっせー!テメーは何でそう一言多いんだ!」
と言って騒ぎ始めるのを、伸はもう止める気になれなかった。
自業自得。
不器用なりに優しいのが当麻だが、同時に一言多いのも彼だ。
勝手になさい、と心で呆れて掴み合う2人を放置し、3時のオヤツの準備を始めようとその場を離れるのだった。
*****
おやつの準備が出来た頃には喧嘩も収まってるか、食べてる最中に収まります。