海へ



テストが始まる前までは、いざ、という心意気がある。
それがテスト開始となり1日目が終わると、まだまだ、とヤル気が残っている。
2日目が終わる頃になると表情が曇り始め、3日目には焦りが見え、そして4日目に覇気が無くなり、
最終日の5日目には完全に失意のどん底になる。
誰が。
遼と、秀が。


高校に入って最初のテストの時は毎日応援し、励ましていた伸も、2学期に入ってすぐに行われる実力テストが夏休みの宿題から
出題されるという事を聞いていたにも関わらず、すっかり失念して遊びまわっていた彼らがテスト終了時に完全に絶望しているのを見て、
無駄に声をかける事をやめた。
呆れたというのは多少あったが、それよりも放って置いても彼らは勝手にケロリと気を持ち直すというのが解ったからだ。

先ずはテスト終了から数日後(早いときには翌日)に、秀が立ち直る。
そして同じく散々たる結果に打ちひしがれていた遼が、それに引き寄せられるように立ち直る。
寧ろ声をかけないほうが彼らなりに気持ちの整理がつくのか、立ち直るのが早いように見えた。

これは実際そうで、だからと言って2人にとって周囲の気遣いが迷惑なのではない。
単に、成績の良い者から慰められてもあまり効果が無いだけだ。
宿題はすぐに手をつけ、それなりに上位の成績をキープしている伸は優等生だ。
その伸に慰められたところで有難くは思えても、遼と秀の心の奥にまでは響いてこない。

因みに最初の頃、伸以外に征士も声をかけていた。
但し、此方は少々説教臭い。
派手な容姿を裏切って努力型の征士は、伸同様毎日授業に真面目に取り組み、予習復習をこなす。
その彼の口から出ることといえば、「テスト後からはもっと真面目に勉学に取り組むことだ」と、まるで”お父さん”のような事ばかり。
解ってはいても後悔の真っ只中にいる2人としては、身に染みるよりも耳が痛いだけだった。

では当麻はどうだったのか。
彼は最初から慰めの言葉はかけない。
本人達に気持ちがないのでは、幾ら教えても身につかない事は当麻はよく解っている。
だから2人が明日のテストに向けて足掻くというのであれば勉強を見てやるのだが、慰めの言葉と言うものはかけてこなかった。
天才と言われている自分が声をかけたところで、ただの嫌味にしかならないというのは本人が一番よく理解しているようだ。



さぁ、今回もテストが始まった。
2学期最後の、期末テストだ。

中間テストはギリギリのところで補習対象にならずに済んだが、今回は出題範囲も広い。
しかも内容はだんだんと複雑になっている。
やはりというべきか、テスト前から遼と秀は苦戦し、暫く当麻の世話になる日々が続いていた。

そうして迎えた期末テストも既に3日目。
いつもと同じように前日までは今度こそという風に満ちていた気概も、そろそろ萎み始めているのは屋敷の誰の目にも明らかだった。


「………………さむ…」

「当麻、そこ風上じゃないか。こっちにおいでよ」


当麻がマフラーに口元を埋めて呟くと、伸が自分の横にくるよう声をかけた。

電車を待つホームのベンチには、5人が仲良く並んで座っている。
左から順に、当麻、征士、遼、秀ときて2年生の伸も一緒だ。
テスト期間中は一切の部活動もないから、征士も遼も他の仲間と同じ時間帯に帰ることが出来る。
ただ同学年の4人はテストの日程が同じなのだが、1人だけ学年が違う伸だけは日によって待ったり待たせたりする事になってしまうが、
それでもテスト期間中の5人は、いつも5人揃って帰宅していた。

伸の隣に当麻が座りなおすと、伸は一応横目で遼と秀の様子を伺い、そして当麻に向き直ってなるべく普段の口調を心がけて話した。


「もう、キミってば寒がりなのに何で風上なんかに座ったんだい」

「ホームに入ったときは伸のほうから風が吹いてたんだってば。だから俺、征士の陰に隠れてたんだけど…」

「風向きが変わっちゃった?」

「……そ」


当麻は成長期が来てヒョロヒョロと伸びた体を必死に丸めながら、伸を風除けにするように彼の陰に隠れようとする。
寒くて表情が強張っているせいか、眉間には深い皺が刻まれっぱなしだ。
それを確認した伸は隣の遼と秀を飛ばして、今は一番端で風に晒されている征士を覗き込んだ。


「征士は?寒くない?」

「このくらいなら私は平気だ」


仲間の中で一番北の地に生まれた美丈夫は、天才児と違って背筋を伸ばしたままベンチに腰掛けていた。


「…………あー、…寒い…」


すっきりと晴れない空に、当麻の呟きだけが響いた。


電車はまだ来ない。
普段の通勤通学の時間帯ならばもう少し本数も多いのだが、テスト期間中は1日が精々3時間目で終わってしまう。
今日は伸が1時間、他の4人が2時間だったために帰宅時間はいつもよりかなり早い。

それなりには気まずいんだよなぁ…

仲間の中で一番気遣うタイプである伸は、ぼんやりと考えた。
自分たちが乗り込む電車まで後10分近くある。
この時間をどうしたものか、と悩んでもう一度征士を見た。


「ねぇ、征士」

「どうした?」

「キミ、こっちこない?」

「こっち?」


征士が不思議そうに首を傾げると、普段は前髪で隠れがちな右目が隙間から覗いた。
珍しく両の目が見えている状態で素早く自分の隣と伸を見比べる。
どうやら征士としても、遼と秀の事は気にしているらしい。
伸の言う”こっち”が当麻の隣だというのは解るが、今自分まで席を離れると、落ち込んでいる人間に冷たい風が直接当たってしまい、
それは心情的にも堪えるのではなかろうかと思っているようだ。
だが伸は敢えて頷いた。


「うん、こっち。ていうか、当麻の横」

「何故?」

「寒がりの当麻を端に座らせると、ずっと”寒い”しか言わないんだもん。だからキミと僕で挟んだ方が良いかなって」


伸がそう言うと、征士は再び素早く自分の隣と、今度は当麻の横を見比べた。
目が合うと当麻が、助けてー、と小さく嘆いた。
寒いらしい。
そこで征士も仕方のない奴めと苦笑交じりに返し、席を立って移動した。

妙な気遣いをしすぎても、その優しさが辛いこともある。
何でも話せる仲間であるが、同時に男同士だ。
意地ぐらい、ある。

征士が隣に座ると、少しだけ当麻の身体が弛緩した。
あーあったかい、と言っているが、その視界の端で伸の隣を見ているのが解る。
キミだって気にしてるんじゃないかと伸は噴出しそうになるのを堪えた。


「…………雪、降るのかな…」


電車が来るにはまだ時間がある。
その僅かな時間を埋めるために伸が言うと、征士も空を見上げた。


「そうだな……降るかも知れんな。…おい、どうだ、”天空”」

「……これだけ寒いんだ、降るんじゃないのか?」


聞かれた当麻がナゲヤリに言うと、また沈黙が訪れた。
彼ら5人と同じ高校に通う生徒は大半が近隣からで、通学手段も徒歩でなければ自転車かバスが多いこともあって、
駅には今、殆ど人影が無い。
その上、電車通学の生徒にしたって大抵は山へ帰る彼ら5人とは違う方向の電車に乗るので尚更だ。

もうそろそろで反対のホームに来る電車のアナウンスが聞こえる頃だろうかと、征士が時計を見たときだった。


「………………………海が見たい…」


遼だった。
小さな声で、淡々とした口調で、ボソリと。


「…えっ」


即座に反応したのは伸だった。

沈黙の間中、一体何を考えていたのかは解らないが、遼は唐突に海が見たいと言った。
注意深く表情を見たがさっぱり解らず、どう返事をしていいものか悩んでしまう。
ただ、場合によっては落ち込みが深すぎるとも取れる内容だ。

遼の発言を扱いかねたのは征士も同じだったようで、2人からは見えないようにして隣に座っている当麻の腿を叩いた。
”おい、注意を払っておけ。”
そう伝えたかったのはきちんと当麻に伝わり、だが当麻もそれは解っていたのでカバンの陰で同じように征士の腿を叩いた。
”解ってる。”


「う、………海?…そう言えば今年の夏は柳生邸にいる間はずっと山に居たから、みんなで行ってないね」


僕は実家が海に近いからお盆に行ったけどそうかそうだよね、と伸は話をゆっくりと逸らそうとする。


「山梨は海が無いからな。では来年、行くか」


征士が続ける。
その横で当麻はズルズルとベンチの上をだらしなく滑った。


「夏はやめよう、人が多い。行くならせめて春がいい」

「春じゃ泳げないでしょ」

「だが善は急げという言葉もあるからな、夏より春に一度見るだけでも行くのも良いかもしれん」


当麻の言い分を伸が嫌がり、そしてその折衷案を征士が出す。
言い終わるとすぐに3人の視線は遼へと向かった。


「春じゃなくてさ、……今、見たい」


だが力なく首を振った遼は、今、と答えた。
これは愈々マズイのではないかと、伸がゴクリと息を飲む。
すると遼は3人の方に首だけで向いた。その目に失意は無かったが、どこか悲しさが滲んでいた。


「征士も言ったけど山梨って海ないし、俺自身も海に連れてってもらった事って数えるくらいだし、冬の海なんて見たことないし、それに」


遼にしては珍しく早口で捲し立てる。
そして一息だけ置いて、今度は丁寧に口を開いた。


「みんなでこうして過ごせるのって、限りがあるし……」

「まぁそりゃ…うちの高校は3年制だからな」

「だからさ、海、見に行きたいんだ。だってもう2学期が終わるだろ?1学期の時はまだまだ時間はあるって思ってたけど、
あって言う間に夏休みで、2学期で、それでその2学期もテストが終わってテスト休みも明けたら終業式で、……そしたら1年なんてすぐ終わるし、
そしたらさ、俺たちは2年だけど伸は来年3年生で、そしたら大学進学か就職かってなるから、だから、…それで…みんなで海を見に行きたいなって…」


言葉のペースとは裏腹に、言ってるうちに気が昂りすぎたのか、遼の頬は紅潮している。

テストのことで落ち込んでいるのではないと解って安心した3人だが、それでも少しくらいは落ち込めよと思ってしまうのは、
何と言うか毎回肝を冷やすような結果のせいだろうか。
だが遼の言いたい事も、気持ちも解るのでそんな気持ちもすぐに薄れていった。


「言いたい事は解ったが遼、何も今でなくたって良いだろう?」

「そうだよ。それにキミ、まだテスト残ってるんだよ…?」


勉強は良いのかと伸が含んで言うと、さっきから間に挟まってずっと黙りっぱなしだった秀が急に拳を握り締めた。


「いや、だからこそだ!」

「だからこそって…キミねぇ」

「思い立ったがきちび!」

「”きちじつ”だ、馬鹿。お前、今日のテストの読み問題で出てたってのに、早速1つミスりやがったな」

「今は、んな事ぁどーだって良いよ!行こうぜ、海!」

「秀、」

「だってテスト終わっちまったら遼も征士も、また部活始まっちまうじゃん!」

「…それは、…そうなのだが…」


秀の表情から彼が自棄になっているのではなく、また、逃避したいのではないというのはありありと伝わってきて、
だからこそ征士も気圧されてしまう。
今はテスト期間中だ。学生の本分は勉学だ。
だが、いつまでも5人このままでいられるワケではないからこそ、偶には思い切ってみたい気もしてくる。
ただ彼らの日頃の成績を考えると、ここで甘やかして後々苦労するのは彼らなのだから、今は留まれと言わねばならない気もしてしまう。

珍しく征士が言いよどんでいると、当麻がポケットに入れていたカイロを取り出して秀の方に投げつけた。


「イッテ…!」

「…俺は別に行ってもいいけど」


胸に当たったカイロを手で受け止める秀は一瞬当麻の言葉が解らずポカンとしたが、理解すると今度は眉尻をぐいっと上げた。


「賛成してくれんなら、投げんじゃねーよ!」

「だってソレ、もう暖かくなくなってきた。ポケットに入れるから小さいのにしたんだけど、それ、3時間くらいしか保たないんだぜ?」

「……だから何だってんだよっ」

「俺、海に行くに賛成してやるからそこの売店でカイロ買って来てくれよ。寒いだろ、海」

「と、当麻…っ!」

「ちょっと当麻、キミねぇ」

「いいじゃん。どうせ行ったって泳げないんだし、ちょっと行って帰ってくるだけだろ?」


次兄と同じ気持ちだった長兄は、軽く言う末弟を窘めるのだが、当の本人はケロリとしている。
だが考えてもみれば確かに彼の言うとおり、冬の海に何の装備も無く入るなんて命取りでしかない。
やれる事は少ないのだし、遼も「海が見たい」と言っただけだ。
そう考えると、地元で見慣れたものとはいえ伸にとってもこれから海を見に行くというのはとても魅力的に思えてくる。
どうやらそれは征士も同じだったようで、気持ちの置き場に困って引き結ばれていた口元に緩い笑みが浮かんでいた。


「………確かにそうかもね…」

「じゃあ、行く!?」


態度を軟化させると、さっきまでの沈痛な面持ちはどこへやら、遼は無邪気な子供のように食いついてきた。


「そうだな、行っても良いかもしれん。折角行ける距離に海があるのだし、それに当麻も海なんてロクに見たことが無いだろうし」

「失礼な、それなりにはあるわ」


大阪には湾しかないだろうと言う征士に、当麻が口を尖らせながら「南下すりゃビーチはあるし和歌山に行けばちゃんとした海もある」と返す。
その遣り取りを聞きながら、駅まではまるで引き摺るような足取りだった秀が元気よくベンチから立ち上がった。


「まーまー、いいじゃん!そんじゃさ、当麻のカイロと、電車で食うお菓子買ってくるわ!」

「ちょっと待った!何で電車でお菓子食べるのさ!」


聞き捨てなら無い言葉に、すかさず伸が止めに入った。


「だって海だぜ?」

「海だけど、お菓子は要らないでしょ!」

「要るよ!だってこっから一旦小田原に行くだろ?そんで藤沢に行って、江ノ電に乗って…そうだなー、鎌倉高校前かな、やっぱ」

「それこそちょっと待った!そんな事してたら片道1時間くらいかかるんじゃないの!?」

「だーって折角の海だぜ!?なぁ、遼!」

「え、ええっと………俺、地理がちょっとまだ…解ってない、かな…」

「私は流石に同意できんぞ、秀。ナスティが昼食を用意してくれているのに、昼に戻れんではないか」

「確かに折角のご飯を台無しにするのは俺も嫌だな」

「とーまぁ!おまえ、さっき賛成してくれたじゃん!」

「俺は、ちょっと行って帰ってくるだけ、って事で賛成しただけだ」

「ええええええええ」

「ええええええええ、じゃないよ!ちょっと待ってよ、ここからだから……えぇっと、相模湾とかでも砂浜はあるんじゃないの?
そこなら時間的にも片道15分くらいで行けるんだし、そっちにしようよ」

「相模湾!?湾じゃん!」

「湾って海じゃないのか?」

「相模湾も大阪湾も太平洋に繋がるし、太平洋は日本海にも大西洋にも繋がってるから、結果的に海だ」

「とーまっ!お前すげー屁理屈じゃん!」

「屁理屈なもんか、海は結局繋がってるし地球は丸いんだ。一緒だ一緒」

「そっか、一緒か」

「りょー!お前、当麻に流されんなって!」

「もういいじゃない、それで。はい決定。相模湾見に行こう。僕、ナスティに寄り道して帰る電話してくるよ」

「おーい、しーん!」


立ち上がると自分とは逆の方向に颯爽と去っていく伸の背に秀が声をかけたが、彼は振り返らない。


「では春に江ノ電に乗ろう。それで構わんだろう、秀」

「俺ぁ今、お菓子が食べたかったんだってばー!」

「お菓子はあっても無くてもいいから、早くカイロ買って来てくれよ。寒い」

「て、めー!」

「秀、早くしてあげてよー!寒くなりすぎると当麻が行くの嫌がるからー!」


当てが外れて喚くと、公衆電話の受話器を持った伸が離れた場所から追い立ててくる。
それに秀は鼻から息をフンと吐いたのだが。


「そうだぞ、秀。コイツの気が変わらんうちに行って来い」

「そうそう、俺、気分屋だぞ」


1年6組の2人は揃ってこうだ。
いつも通りといえば、いつも通り。
テスト中で落ち込んでいる人間にするには酷い仕打ちといえば、酷い仕打ち。


「うおおお、なにこの扱い…!」

「秀、俺、一緒に行くよ。ほら、行こう」


秀が嘆いて喚くと、遼がその隣で同じように立ち上がっていた。
2人で顔を見合わせ、そして残り3人を見る。
いつもの仲間がいた。
それだけの事なのに嬉しくなって、2人はそのまま売店まで駆け出した。




*****
「はい、もしもし。あら?伸。…え?あぁ、そう。解ったわ。じゃあまた帰る時には連絡をちょうだい。
大丈夫よ、温めなおせるものだから。ゆっくりしてらっしゃい」