夏のくらし
少年達が下宿する屋敷は山の中にあり、木々の間を通り抜けてくる風は街中に吹くものよりもずっと涼やかだ。
だからと言って決して暑くないわけではないし、この気候に慣れてくると繁華街に店を構える実家よりマシとは思えても、涼しいとは言えない。
秀は渋々という風に腰をあげ、庭に下り立つとホースを手に取った。
リビングから続くのは南に面した庭だ。
すぐに土の地面ではなく、洗濯物を干せるようにとタイルが敷かれている。
日中の日光と、そして遠慮なく照り付ける西日で熱を孕んだ空気がむぅっと上がってきて秀は顔を顰めた。
アスファルトからの熱よりはマシだが、やはり。
「あっちぃ……」
蝉の声がまたこの暑さに拍車をかけているとしか思えない。
実家よりはマシだが、暑いものは暑い。
いつまでもここに立ち尽くしていても仕方がないと巻かれたホースを伸ばしていき、水道の栓を開く。
手に持ったホースの中を水が進む感触が伝わってくると、秀はホースの先を指で押さえて平たくした。
そのタイミングで水が噴出す。
ビシャっと飛び出した水を、秀は手首のスナップを使ってタイルの上に撒き散らしていく。
小さな虹が西日に煌いた。
「うおー、虹、虹」
クーラーは快適だが、その風にばかり当たるのは身体に良くないという長兄の言葉から、ここでは朝と昼と夕方の3回、打ち水をして窓を開け放っていた。
打ち水をすれば涼しいものだというのは、秀も子供の頃に親から教えられていた事だ。
ただ店先に水を撒くのは客がいない昼過ぎで、夕方に撒くことは屋敷で暮らすまではなかった。
夏の間だけの、少年達の当番仕事。
今週は秀がその打ち水当番だった。
打ち水は涼しい。
だが実際にその役割を果たす者は暑い中、庭に出なければならない。
屋敷は山にあり広い庭は人が通る事などないのだからホースで水を撒ける。短時間で済む仕事だ。
しかしそれを差し引いてもやはり、楽しいとは思えない仕事でもあった。
「…お」
散歩にでも行っていたのか、木々の間から白炎がその姿を見せた。
遼は先ほど漫画を読んでいたから1匹で出かけていたのだろう。
その白炎と目が合う。
「おう、おかえりー」
声をかけると「ぐるる」と喉を鳴らして答えてくれた。
そのまま足ふきマットで土を落として室内に入るかと思っていたが、白炎は立ち止まり、秀の手元をじっと見ている。
「…?」
何だろうと首を傾げると、水の向く先に白炎の視線が移った。
お、と思うと今度はその水にじゃれつき始める。
霊獣だと聞いているが、秀からすれば白炎は普通の白い虎だ。
虎という事はネコ科の動物という事で、だから水にじゃれつく姿は大きな猫そのものにしか見えない。
強く賢い彼のそんな様が面白くて水を右に左にと振れば、白炎もまるで猫じゃらしに飛びつくように水を追いかけて、その身体を濡らして遊ぶ。
「おーしゃおしゃおしゃ、白炎、おーしゃしゃしゃしゃ」
楽しそうだナァと見守っている秀の思考が、羨ましいナァという方向に傾くのは時間がかからなかった。
暑い中、庭に出ている自分と、水を被って楽しそうな白炎。
あまりにも気持ち良さそうなその姿に、秀は段々自分も水を被りたくなってくる。
思わずホースの先を眺めてしまったが、これをこのまま自分に向けて被りたいと言うよりかは。
「誰かかけてくんねぇかな…」
今の白炎のように、弧を描いて落ちてくる水を、自分に。
そう思って室内を振り返ると、ちょうど雑誌を片付けている当麻と目が合った。
「おう、とーまぁ」
声をかけると、ん?とタレ目が答える。
ちょっとこっち来てくれと手招きすると、素直にガラス戸のすぐ傍まで当麻がやって来た。
「何?」
「あのさ、水、かけてくんねぇ?」
水道の栓を閉めていないから水は出っ放しだ。
それを向けるわけにもいかないから、手は仕事をしたままで当麻に頼んでみる。
水は今、白炎がじゃれついている状態で、それを見た当麻は秀が何を望んでいるか理解したらしい。
ちょっと面倒な顔をして、だけど手にしていた雑誌を床に置いて、秀と同じように突っ掛けを履いて庭に下りてくれた。
「ん」
「おう、サンキュー!」
突き出された手にホースを渡す。
受け取ってくれたのを確認してすぐに秀は白炎と同じくらいの距離に立って、当麻を振り返った。
「…んぶ…っ!!!!」
するとその顔目掛けて、一直線に水が掛けられる。否、勢い的には、ぶつけられる、と表現した方が近い。
「んば、…ぶべ、おい、…っぶ、!と、当麻!!」
ホースの先を潰して出てくる水の勢いは強い。
それが顔に当たると、怪我はしないにしても痛い。
顔の前に手を突き出して必死に防ぎながら抗議の声を上げると、漸く水攻めから解放された。
「なんだよ」
「お前…!顔面を直接狙うヤツがいるか!!!」
「水掛けろって言ったのはお前だろうが」
「ああじゃねぇの、解ってんだろ!!」
ふざけてんのか!と怒鳴ると、また水が顔にぶつけられる。
今度はすぐに止めてもらえた。
「…て、…んめぇ……!」
「ふざけてんのはお前だろ。さっさと水撒き、終われよな」
尤もな事を言っている当麻の口端は意地悪く上がっている。
内容は正しいが、要はからかわれただけだ。
チクショウと思っても確かに当番の仕事中に遊ぼうとしたのは自分だという自覚がある秀はそれ以上の反論が出来ずに、
当麻が突き返してくるホースを黙って受け取った。
当麻はすぐにリビングに戻り、そして雑誌を片手に奥へと消えた。
っちぇ。と思っている秀だが、だからと言ってすぐに仕事に戻る気にもなれない。
こうなってくると意地でも水を被りたくなるものだ。
誰かいないかともう一度リビングを見ると、今度は部屋の奥で剣道の道具の手入れをしている征士と目が合った。
一瞬期待に目を輝かせた秀だったが、一部始終を見ていた征士は口を引き結んで首を横に振った。
却下、らしい。
またしても、っちぇ。だ。
さっきの当麻との遣り取りを見ていない者を当たるしかない。
そう思った秀が待ったのは、恐らく今はダイニングルームの向こうにある、台所にいる伸の登場だ。
運良く彼がリビングに顔を出してくれるのを待つと、それはすぐに訪れた。
「お、伸、しーん!!」
同室の彼を呼ぶ。
5人の中では一番のお兄さんだが、結構こういった手合いのことにも付き合ってくれる彼だ。
暑いことを訴えて少しだけとお願いをすれば聞いてくれるかもしれない。
そう期待して彼を呼んだのだが。
「……何?…水なら掛けないよ」
…勘がいいのも彼だった。
思っていることが顔に出やすい秀の頼みごとを読み取った長兄は何かを聞くよりも先に断り、さっさと水遣りを終えなさいと末弟と同じ事を言って
リビングを横切っていった。
それを恨めしそうに視線で追っていると、その端で征士が頷いているのが見えてまたもや、っちぇ。と思った。
当麻が駄目。
征士も駄目。
伸も取り付く島がない。
となると頼れるのは。
「っりょー!」
さっきから姿の見えない遼を呼んでみた。
少しだけすると「呼んだか?」と大将が顔を出す。
「おう、遼!ちょっとコッチ来てくれよ!」
5人の中で一番こういった遊びをする相手は遼だ。
のんびりしていて、ちょっとズレた感覚の持ち主でもある。
その彼ならば水遣りを終えろと言うよりも先に付き合ってくれるはずだ。
そう思って大きく手を振りながら庭に呼び寄せる。
「あのさ、遼、」
「あ、白炎…!」
水を掛けてくれと訴えようとした秀を通り抜けて、更にその後ろに遼の視線が固定されてしまった。
「……え、」
「何だよ、どこ行ってたんだ」
身体を振ってある程度水を飛ばした虎に駆け寄った遼は、その背を撫でてやっている。
2つ以上の物事を同時にこなせないのが遼の特徴だ。
こうなってしまうと、最早自分を呼んだ秀の事などもう頭から抜け落ちてしまっている。
虎特有の太い肢を持ち上げて、そこについた土を落として。
「ほら、部屋に入るぞ」
そう言って室内に戻って行ってしまった。
「………………………」
残されたのは秀1人だ。
さっさと水を撒いて室内に戻ればいいのは解っている。
何も絶対に水を被らなければならないワケではない。
だがこうなってくると、本当に意地になってしまう。
当麻に始まって遼まで、全員揃ってこうもやってくれないとなると、もう、本当に。
頼めるとすれば後はナスティだけだ。
が、絶対的に優しい彼女に頼むのは、それはそれで負けた気がしなくもない。
でも水は被りたい。
「…………………………………」
しかし伸が台所から出てきたという事は、ナスティも未だ台所にいて夕食の準備をしているはずだ。
彼女が出てきた時に頼もうかとも思ったが、家事全般をこなしている彼女にそれを頼むのも忍びない。
”手伝い”という形でしている伸とは、少しだけ意味が違う。
でも。だけど。しかし。
「……………………………………。………ナースティー!!!」
結局その彼女を頼る事にした。
悔しいけれど、水をチョットでも被れば気が済むのだから仕方がない。
返事はないし、すぐに出てくる様子のない彼女を待っていると。
ザッバァ。
「…………!!!!?」
大きな水音が耳のすぐ近くで聞こえて、そして何故か体中が濡れている。
秀は一瞬、何が起こったのか全く解らなかった。
目に流れてくる水を瞬きでやり過ごしていると、頭上からクスクスと笑い声が聞こえてきた。
「……っ!!!」
真上を見ると、2階のバルコニーには慣れ親しんだ仲間の顔が4つ並んでいた。
1人は天然だと言われているヤツだ。
1人は真面目で堅物だと言われているヤツだ。
1人はクールで近寄りがたいと言われているヤツだ。
1人は穏やかで優しいと言われているヤツだ。
その誰もが全員、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて、悪ガキの様に2階からずぶ濡れの秀を見下ろしている。
見ると全員、手にそれぞれバケツや洗面器を持っていた。
「おまえら……っ!!!!」
漸く事態を理解した秀はホースを投げ出して2階を目指そうとして、けれどそこで踏みとどまった。
今、自分はずぶ濡れだ。
水を引っ被ってTシャツもズボンも濡れている。
足元も突っ掛けを履いているが裸足のままだったから、これもビショビショだ。
未だパンツまでは染みていないけれど、少しすれば湿ってくるだろう。
このまますぐに室内に入るわけにはいかない。
部屋中に水の跡をつけてしまう。
クッソ、と思っていると「秀、」と笑みを含んだ優しい声で呼ばれた。
「……?…ナスティ!」
見るといつの間にかリビングに来ていた姉が、大きなタオルを広げて笑っている。
「ほら、いらっしゃい」
室内に入るよう言ってくれているが、秀は躊躇った。
「や、でも俺今濡れてっから…」
「大丈夫よ、床なら拭いておいてあげるから」
優しくそう言われて、秀は申し訳なく思いながらそっとリビングに足を踏み入れる。
すぐに頭からタオルが掛けられた。
「シャツもズボンも着替えなさいね?」
下着は大丈夫かしら?と聞いてくるナスティの手には、いつの間にか秀のTシャツとハーフパンツがあった。
随分と用意のいい彼女に驚きつつ、感謝しつつ濡れた髪をゴシゴシと拭う。
「うん、サンキュー。大丈夫。…ゴメン」
自分が悪いわけではないがつい謝ると、ナスティがまた笑った。
「いいのよ、それよりも」
またもやナスティが何かを手に持っている。
頭からタオルをどけて、それを確認した秀は思わず目をひん剥いた。
「………なに、それ…」
「水風船よ」
クスクスと笑っている彼女の手には4つの水風船がある。
数からしてどう使うために用意されたのかは何となく解る秀だが、やはり「何故」というと「いつの間に」というのが解らない。
首を傾げるとナスティはまだ笑う。
「さっきあの子達がバケツを探したり水の入った洗面器を2階に運んでるのが見えてね、それで準備してたの。
あなたに呼ばれたのは解ってたんだけど、遅くなってごめんなさい」
そう言ったナスティが、秀の手に4つの水風船を渡してくる。
どうしてこんな物が屋敷にあるのか解らないまま、秀はそれを受け取った。
「ご飯まであと少しだけあるから、遊んでらっしゃい。でも後で床は拭いておいてね?」
遊びたい盛りの少年は、その言葉を受けると考える事はやめて、ニッと笑ってから2階への階段を目指して駆けていった。
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そして2階から聞こえてくる4人の悲鳴を聞いて笑うナスティ。
5人でいるとただのガキンチョになる彼らが好きです。
特に秀相手になると、小学生みたいな悪戯をするのかなのとか。