東北東
「なぁなぁ、大阪って豆まきの日に巻き寿司食べんだろ?」
日曜日の朝、ゆっくり時間をとった朝食の後で秀は、ソファに移動した当麻の背に話しかけた。
「豆まきの日?」
「秀、それって節分のことだよね?」
豆まきの日という表現に首を捻った当麻に、伸が間に入って伝えてやる。
すると秀が、そー!と何にも考えずに嬉しそうに、それそれ、と続けて言う。それに、ちゃんと言えよと当麻が苦情を言ったのだが
やはり特に何も考えていなかった秀は何について言われているのか解らず、巻き寿司は?と暢気にまた言うのだ。
「巻き寿司っていうか太巻きな」
「え、何か違うの?」
「違うって言うか…巻き寿司は切ってるけど、それを切らずに食べる」
「え、切らないでどうやって食べるんだ?」
そこに遼が食いついた。
箸で持つところを想像していたらしく、右手が無意識のうちに実在しない箸を持って頻りに宙で動いている。
「箸じゃなくて手で食べるんだよ」
そう教えると、へー、と遼と秀の声が綺麗に重なった。
「確か無言で食べるのではなかったか?」
先にソファに座っていた征士が会話に参加すると、当麻がうんと頷いた。
「黙ぁーって恵方を向いて食べる」
「恵方って何?」
「毎年違うんだけど、決められた縁起のいい方角があるんだよ。そっち向いて食べる」
「で?」
前の節分の時はどこだったっけな、と言っている当麻に秀が期待に満ちた目で尋ねる。
その意味が解らず当麻はまた首を傾げた。
「何が」
「いや、で?やったん?」
「…は?」
「当麻はこの前の節分の時にやったのか聞きたいみたい」
足らない秀の言葉をまた伸が補った。
その見事さに遼が感心しきった目を向けている。
「俺が恵方向いて太巻き食ったかって?」
「そー!」
「そりゃ食べたけど」
「一人なのに!?」
両親は離婚している上に親権を持っている父親は滅多に家に帰ってこない。だから当麻は、殆ど一人暮らしといっていい生活を送っていた。
その一人きりの家で恵方とやらを向き、切ってもいない巻き寿司を黙々と食べている姿を想像した秀は、聞いたくせに遠慮なく反応する。
それを伸が、こらっと小声で嗜め、そして遠慮なく頭を叩いたのだが言われた当麻も不思議そうな顔をしている。
「一人でもするけど?」
「えっ」
何か変?と言いたげな当麻に、次に反応したのは遼だった。
「なに」
「え、だって一人でやってどうするんだ?」
「…逆にお前らは節分に何を求めてるんだよ……」
恵方を向いて食べる。ハッキリ言ってしまえばただそれだけの行為は、謂わばその日限定の食卓風景であって何も大袈裟なイベントではない。
そもそも太巻きを食べるという事自体が神事ではなく、単に季節の行事に便乗した商売が元だ。
そして当麻も単にそれに乗っかって食べているだけに過ぎない。
一人暮らしだと夕食の準備だって面倒なのだ。楽できるのなら楽をしたい。
それを聞いた遼は「へぇ」とまた感心し、その横で秀はニタァっと笑った。
「なぁ、じゃあやろうぜ、その太巻き食うの!」
朝食を食べ終えたばかりだというのに、どうしてすぐに食べ物の話が出来るのだろうかと伸は呆れて溜息を吐いた。
目の前には太巻きが6本。
時刻は11時半を回ったところで、いつもの昼食より少しだけ時間が早い。
提案の後、まだ夏だから半年以上先だろと冷たく言った当麻に秀は、今日やりたい!と言い出した。
それに対して眉間に皺を寄せたのは当麻と伸だけで、遼は好奇心を擽られて喜び、征士は何も言わず(そして表情も変わらず)、
主に食事を作ってくれている、最後の砦のような存在のナスティが、
「あら、楽しそうね」
と笑って言ったからこうなった。
そしてその楽しそうな気分のままに彼女は家にある材料を集め、足りない海苔だけを買いにスーパーへ向かい、帰ってくるなり
太巻き作りに取り掛かって現在に至る。
太巻きと言っても普通の巻き寿司と大差はない。
巻いて作って切らずにそのまま出せばいいだけだ。
それが6本、大皿にゴロリと並べられた。
その姿を見慣れていない伸は眉間に浅い皺を作ったままだった。
「………本当にやるの?」
「あったりめーじゃん!ナスティ作ってくれたんだしよ!」
そしてその逆で秀はノリノリだ。
当麻に恵方どっち!?と尋ねている。当麻は当麻で、えーっとあっち、とどうみても適当に庭のほうを指差していた。
「食べだしたら喋っちゃダメなんだよな?」
遼が確認をする。
「喋ってはならんが、呼吸はしろよ」
1つの事を禁止するとそれを意識する余り他のことが疎かになる遼の性質を気にして征士が先に注意をした。
案の定、遼は硬い表情のまま「うん」と頷いた。
さぁ、では。
6人は思い思いの場所で律儀に正座をし、当麻が適当に指差した庭を向いて太巻きを手にする。
「じゃ、……いただきまーす」
嬉しそうに言った秀の声を最後に、屋敷は完全に静まり返り全員一斉に太巻きにかぶりついた。
「………………………」
最初に食べ終わったのは早食いの当麻だ。
食べなれていることもあって兎に角早い。
他の5人が米を零さないようにと気遣いながら食べているのを最初は黙って眺めていたが、暇になってきたのだろう、大きな欠伸をした。
「………………」
大人しくじーっと待ってもまだ誰も食べ終わらない。
秀が次に終わりそうだが、それでもまだ少しかかりそうだ。
暇。そう思った当麻は静かに部屋を出て行った。
「…………?」
秀の視界の端に当麻が戻ってきた。
何だろうかと気になりつつも太巻きを食べるのに必死になっていると、自分の顔の前に何かが差し出される。
「…?」
それは当麻が手にした手鏡だった。
最初に映りこんだのは自分の顔。
そしてゆっくりと鏡の角度が変わっていき、見慣れた自分の顔がフレームアウトしていく。
それと入れ替わりにフレームインしてきたのは、真顔で太巻きを食べている、秀の斜め後ろに陣取った征士だった。
「………っ、……っぶ!!!!!!」
別に征士が何かしたというワケではないが、妙にシュールなその絵に耐え切れず秀が噴出した。
秀から征士が見えたという事は当然征士からも秀の目元が見えたわけで、つまり彼が何を見て笑ったのか征士にも大体想像がついて、
深い皺を眉間に刻んだが、もう秀はそれを見ていなかった。
「とーま!テメーっ!!!!!」
太巻きの残りを左手に持ったまま立ち上がり、右手で当麻の胸座を掴む。
余計な悪戯をしてくれた軍師に結構本気で怒っているのだが、怒られている本人の表情に全く反省の色はない。
だって暇だったし。
どうせ行事に便乗した商売ごとだし。
そもそも本番じゃないし。
そんな事を言っている。確かに本当の事ではあるけれど。
2人の遣り取りを、伸は黙々と太巻きを食べながら内心呆れていたのだが、途中で秀の気配が変わったのに気付いて焦り始める。
明らかに秀が、当麻の言い分に対して「それもそうだ」という風を見せ始めたのだ。
……ヤバイ。
下の弟2人が組むと大抵、つまらない悪戯しかしない。
嫌な予感がした伸は、太巻きを食べるスピードを上げた。
悪童2人がまずターゲットにしたのは一生懸命食べている遼だ。
無言で食べ終えるという目標以外何も見えなくなっている彼は、自分の両側に不穏な空気を持った2人が立った事に気付いていない。
一心不乱だ。
その彼の視界に、両側から急に飛び出してきた仲間たちのうち軍師は垂れ目を指で引き上げて釣り目にした上で寄り目を、
そして義に厚い男はTシャツを頭まで被って妙な踊りをして見せた。
「…………っ!!!!!!っ、……ゲホ…!ゲホっ!!!」
あまりに突然の出来事に驚いた大将はまず咽て、それから腹を抱えて声も出せないほどに笑い出した。
笑う合間に、ヒドイな!と半分怒っているが義の男が腹踊りをやめないので笑いっぱなしだ。
それを聞いて益々伸は焦り、おっとりしたナスティも急ぎ始めた。
噴出したことで声を出してしまった遼も、悪童2人に加わってしまったようだ。
腹いせだか何だか知らないが、彼が選んだターゲットは伸だった。
だが特に何か面白いことが思いつく性格ではない彼は、単純に伸を擽る事にした。
が、伸は”擽ったがり”ではない。それが通用するのは遼と当麻だけだ。
やはりすぐに手詰まりになってしまい、他の手を捜そうと周囲を見渡し始める。しかしすぐに何か見つかるわけでもなければ、思いつくわけでもない。
それをチャンスだと思った伸は残りの太巻きを一気に口に含み、勝利を確信した。後はしっかりと噛んで飲み込むだけだ。
その時。
「……うおぉっ!!?」
「わぁ!?」
何がやろうとしたのか解らないが、ハタキを手に走ってこちらに向かっていた秀が床で漫画のように盛大に滑り、
その手からスポーンと飛んだハタキは当麻の頭に綺麗に乗って、そして滑った秀本体が遼にスライディングをかます形になり、床に2人して倒れこむ。
「……っっっぷ!!!」
のを見た伸は、堪えきれずに笑ってしまった。
伸が陥落すると悪童トリオはナスティをターゲットに決めた。
だが彼女に直接手を出すのは憚られるため、さぁどうしようかと3人は無言のうちに目で会話を交わす。
さぁ、どうしよう?
暫し無言だった3人だが、急に当麻が動いた。
それに身構えたナスティだったが、その前を素通りしていく。
助かったかと思いきや、当麻は無言なのは変わらずに、ナスティの斜め前にいる征士の頭頂部の髪を摘まんで上に引き上げた。
襟足は普通に下に向かって生えているが、旋毛が不思議な位置にある彼のサイドの髪はそれぞれの方向に跳ねていた。
そこに加えて上に毛を立てられたものだから、まるで十字のような形がそこに出来上がる。
「………ん、…っふふ……っ」
それを見たナスティが噴出して陥落した。
さぁ、残ったのは超が幾つも付く程のマイペース、征士だけだ。
普段の食事でもしっかりと噛んでゆっくりと飲み込む彼の手持ちはまだ半分ほど残っている。
それをターゲットにした悪童3人がさっきから必死に何かしらして笑わそうとしているのだが、平素から表情の少ない征士が動く様子はない。
擽りは通じない。
秀の腹踊りも無駄だった。
遼が変な顔をしてみても何の反応もない。
「ショートコントー」と言いながら、秀と当麻で無言のコントをしたがそれも当然、効き目がない。
こうなってくるとただの悪ふざけも段々ムキになってくる。
何か手はないか。
密かに負けず嫌いな当麻は特にそうだ。
智将としてのプライドもある。何も手がないというのは許せない。
だが同じく征士も負けず嫌いだ。
次々と仲間が陥落していく中、こんな下らない事に屈したくはない。
何が何でも笑うものかと意識を太巻きに集中する。
勿論、焦って食べることは彼のプライドが許さなかったので、依然ペースはゆっくりのままだ。
「…………………」
「…………………」
智将と礼将の無言の戦いが始まった。(馬鹿馬鹿しい事に)
何となくそれに気付いた秀が遼の服を引っ張って下がるよう指示する。
そして遼が一歩下がったと同時に、当麻が動いた。
「……っちょ、!」
声は伸のものだった。
当麻が突然、正座したままの征士の膝の上に、向かい合うように座り込んだせいだ。
身長差があまりないために、当麻が少し猫背になっている。
随分と距離が近い。
何をするのかと征士も腹に力をいれ、次に来る行動に構える。
「…………………」
一瞬、口端に人の悪い笑みを浮かべた当麻は、あろう事かそのまま。
「…………っ!!?」
征士の持つ太巻きの、反対側にパクリと食いついた。
流石に征士も驚いた。だが声は上げなかった。
最初はすぐに離れようと思っていた当麻だが、それがかなり気に入らなかったようだ。
太巻きを咥えたまま瞬き一つせずに真顔で征士を正面から見据える。
「……………」
だが征士も負けたくはない。(非常に下らない事に)
平常心。そう自分に言い聞かせて、太巻きを食べることをやめなかった。
黙々とペースを守りながら食べる征士。
身体を張った根競べをする当麻。
じりじりと近付く距離。
息を飲んでその様を見守っていた仲間たちだが、徐々に握る拳に力が入っていった。
「………っとーま!逃げんなよ!!!」
秀が叫んだ。
「当麻、頑張れ!!!」
遼も続いた。
最早、目的が笑わせることでも、声を出させることでもなくなっている。
これはチキンレースだ。
そう理解した伸も、負けじと声を張った。
「征士!思い知らせてやれ!」
「征士、仇をとって!!」
ナスティもそれに続く。
笑わせた側、笑わされた側。
両陣営に別れて必死に送る声援に対して、2人はとても静かに互いの限界を比べあう。
距離が近付きすぎて、遂に太巻きを指で持つのが辛くなってきた。
その頃になると当麻のほうが若干、表情が歪み始める。
征士は相変わらずのままだ。と言うか、表情が無さ過ぎて解らない。
…チクショウ。当麻が心の中で舌打ちをする。
「とーま!お前はやれば十二分に出来る男だ!頑張れ!!」
秀の声援が有難い。
仕掛けた以上、自分から引きたくは無い。
当麻は気合を入れ直した。
一方で征士も実は焦っていた。
ここで何らかの策を講じなければそれなりに最悪の結果が待っている。
仕掛けてきたのは当麻のほうだが、だからと言って素直に負けたくは無い。寧ろ、灸を据えてやりたい。
だが当麻はきっとギリギリまで逃げる事はしないだろう。否、彼の性格を考えれば多少の犠牲を払ってでも勝ちに来る可能性だってある。
負けたくは無い。しかしこのままというのは非常に困る。
何か手は無いか。
相変わらずの無表情のままに、征士は必死に考えた。
智将相手に知恵を絞るのは無駄だと解っている。
彼と同じ土俵で勝負してはいけない。
何か自分が有利になる事は無いのか。
頭脳が駄目なら腕力だが、ここで力任せに当麻を引き離すのは、それはそれで負けた気がしてならない。
力も駄目。では一体何が……
親指と人差し指で支えることも難しいほどに距離が近付き、遂に征士が手を太巻きから放した。
「!」
途端、征士は閃いた。
手を使うという事は、何も力に物を言わせるだけではないはずだ。
そう気付いた征士はすぐさま行動に移す。
右手を当麻の弱い腰に。そして簡単には逃げられないように左手を当麻の細い首に。
伸ばされた手の位置で征士が何をするつもりか瞬時に理解した当麻は咄嗟に腕を突っ張る。
後ろに逃げれば負けだ。だから当麻は必死に征士を突き飛ばそうとしたが、一歩遅かった。
しっかりと首と頭を押さえられ、背を丸めた体勢は巧く力が入らず、不利だ。
征士も太巻きを食べるのは一旦中断して、当麻がギブアップするのを待っている。
あまり本気で擽って至近距離で噴出されてしまうのも困るから、擽る手も腰を撫でる程度だ。
征士を押しのけようとする当麻。
当麻に降参させたい征士。
当麻に押し切れと檄を飛ばす遼と秀。
征士に追い詰めているぞと声援を送る伸とナスティ。
「……………なにしてんの、おにいちゃんたち…」
そしてとても冷めた声の、純。
……純。
その存在に気付いた全員が、一斉に固まった。
小学6年になった今も、純は時々この屋敷に遊びに来る。
今日もそうだった。
玄関を開けて声をかけたが誰も出てこない。
だがリビングの方から何やら頑張れだの負けるなだのという声が聞こえてくる。
ゲームか何かしてるのかな?と思いながらドアを開けて部屋に足を進めた先で見たものが、先程の光景だ。
今にもキスをしそうな兄2人。
そしてそれを止めもせずに囃し立てている兄3人と姉。
「ホント、何してんの」
小学6年生は、未だ子供だがそれなりの知識はある。
早い子は思春期を迎えていたりもする。
純はまだそういうマセた感情はないものの、やはり友達から聞く色々な事は知っていた。
「違うんだ、純」
「何が違うの、何してたの当麻兄ちゃん」
「誤解だよ、純。何ていうかフザけてただけで…」
「フザけてって何がだよ伸兄ちゃん」
「いや、もうマジ、ホント、何てーの」
「何がホントなのさ」
「違うのよ、太巻きをね、」
「お姉ちゃんまで何で止めないの」
「純、違うんだ、俺たちも、当麻も征士もそういうつもりじゃなくて」
「じゃあどういうつもりで囃し立ててたの。どういうつもりで腰を触ってたの」
「信じてくれ、純。私はそういうつもりは毛頭無い、それに」
「征士兄ちゃんが一番信じられないよ」
そういう事に興味はあるが、同時に抵抗もある複雑な年頃に差し掛かり始めている少年に、5人の兄と1人の姉は
その後も必死に弁解を試みるのだった。
*****
誤解が解けたら解けたで、「何で僕も誘ってくれないの!」と太巻きパーティについてブー垂れられます。
彼らが16歳当時の恵方は東北東。当麻が指差したのは多分、南。