パーシステント



祖父の遺品を整理していたナスティが見つけたのは古めかしい将棋盤だった。
それを見て目を輝かせたのは当麻で、その歳相応、いや寧ろもっと幼い表情を見逃さなかった彼女は盤を彼に差し出した。
故人の物、ましてや彼女にとって敬愛する祖父の愛用品だったと聞けば当麻だって勿論、遠慮はした。
だが彼女は引かず、駒の入った箱との一式全てを末の弟に渡した。
使ってもらえない方が寂しいでしょう?そう言って。

伸の記憶が確かならそれが確か3日前の出来事だった。

元々何かに没頭すると周囲が全く見えなくなる当麻は、やはり将棋に夢中になり、食事の時間になってもそれさえ気付かず、
かなりしつこく呼びかけるまで1人で将棋盤に向かっていた。
それが初日だった。

2日前からそこに征士も加わった。
仙台の実家にいたころは時々祖父の相手をしていたらしい彼は、当麻ほどではなかったが中々に巧い部類だったのだろう。
対局相手がいるというのはとても楽しいらしく、当麻は前日に比べて更に将棋盤に齧り付いていた。
それを伸は呆れて眺め、ナスティは彼らの両親へと送るべく写真を撮っていた。

昨日。
食事や風呂の時間に関してはしっかり者の征士が一緒にいるからだろう、当麻がそれらを忘れたり蔑ろにすることは前日からなくなっていた。
だが夜遅くまで向かいあって将棋を指しているのは非常に疲れるのだろう。
その日の朝から当麻は随分と疲れた顔で食卓につき、気だるげにしていた。
それに対して征士はいつも通りのスッキリとした顔のままで、当麻が食事を終えるなり、また将棋の話を持ち出していた。
どうやら彼もハマったらしい。
いや、若しかしたら1人将棋を指している彼の姿に、今まで彼に付き纏っていた孤独の影を見て、それを放っておけなかったのかも知れない。





…と、伸は見ていたが、今日。




「アイツらまだやってんのか」


行儀悪くテーブルに頬杖をついた秀が言うと、彼の肘を伸が軽く叩く。


「姿勢、悪くなるよ」

「…はいはい、スイマセンって。…てーか、あいつら、ホンット飽きないのかね」


叩かれた肘を軽く擦りながらも秀の視線はまた窓際に陣取っている2人に向けられる。


「飽きないんじゃない?だいたい当麻って没頭したらそのまんまずーっとってタイプだし」

「征士もそれによく付き合えるよなぁ」


遼の呟きに、伸も秀に倣い2人の方を見る。
立派な盤は床に置かれ、ナスティが出してくれた座布団の上に背筋を伸ばして正座した征士と、胡坐をかいて背を丸めている当麻が昨日と同じようにいた。
姿勢から見れば今は当麻が考えている最中なのかと思ったが、どうやら征士のほうが考えていたらしいのを、彼らの手の動きで知る。


「………当麻ってばまた姿勢が悪くなってる…」


弓道をしているために普段はそうでもないが、どうも集中し始めると途端に背を丸めるのが当麻の特徴だった。
それを見つけるたびにいつも窘めている伸の事を、秀と遼はまるでお母さんのようだ…と思っているのに彼本人も薄々感付いてはいるが、
気になるものは仕方がない。寧ろ悪い事を正しているのだ、注意をやめるわけにはいかなかった。


「まぁ征士が一緒だから飯の時間とか守ってるし、いーんかな?」

「でも昨日の晩も遅くまでリビングにいたみたいだぞ。白炎が時々下を気にしてた」


まるでまだ寝ない我が子を心配する親のような仕草が面白かったと遼は言った。
その白炎は今は庭で寝転んでいる。
どうやら夕べは気になりすぎて眠れなかったのかもしれない。
そんなに心配をかけるようなハマり方は良くないな、と判断した伸が椅子から立ち上がり訓告をしに2人へと歩み寄った。


「ホラ、お茶くらい飲んだらどうなのさ」


まずそう声をかけて注意を引くと、途端に当麻が顔を上げ、どこかキラキラとした眼差しで伸を一心に見つめてきた。
水分補給くらいしなよ、と続けようとした伸は、その必死の目に思わずたじろいで、気持ち後退る。


「な……なに」

「そーだよな、そー!な、征士、ちょっと休憩しよう!」


ウキウキと渡りに船と言わんばかりに座布団から立ち上がろうとする当麻を、また考え中だったらしい征士の腕が力強く掴んでソレを阻む。


「待て、もう少し考えさせろ」

「いいだろ!?ほら、休憩するだけでも」

「集中が途切れる」

「じゃあお前だけ考えてりゃいいだろーがっ」

「勝負の途中に退席などするな、気が散る」


互いに成長過程でまだ未完成の身体とは言え、個体差はある。
特に日頃から鍛錬を怠らない征士と、本人が幾ら頑張っても必要最低限に僅か足した程度しか肉の無い当麻では力の差は歴然としていた。
言葉の上では同等に意見を出し合っても実力行使には逆らえない。
掴まれた左腕を振り払うどころか、立ち上がることさえままならず当麻は悔しそうに征士を睨んでから、再び傍らに立つ伸を見上げる。
何かを訴えるような眼差しで。


「……しぃん……」


一連の流れを見て、伸は気付いた。

そう、確かに将棋は楽しいのだろう。当麻も、そして征士も。
当麻は没頭すると周囲の事など簡単に意識から消してしまう人間だ。
初日はかなり口煩く彼に構い、食事も風呂も、就寝さえも促したがその翌日からは征士が加わったことから安心しきっていた。
だって征士の生活リズムの規則正しさと来たら表にするときに1つ限りで済みそうなほどに、綺麗なものだったから。
その征士が一緒なら、何も伸が口を出さずとも勝手に切り上げてくれると思っていたのだ。
実際、食事や優先しなければならない事はそうだった。
では、なのに何故、夜だけが遅かったのだろうか。
当麻の孤独云々に対する感情がないとは言い切れないが、やはり征士もハマっているのかも知れない。
後は眠るだけで他にする事がない夜の時間は融通が利きやすいのは征士だって例外ではない。
だから昨日の時点で夜更かしは、つい、というヤツだろうとさして気にしていなかった。
だが、その昨夜も遅かったという。規則正しい生活の筈の征士が、白炎に気を遣わせるほどに、何故。
一瞬、征士もハマるとこうなるのだろうか、とも思ったが、違う。
大事な事を忘れていた。

征士は、実は非常に負けず嫌いである。
それも単に相手に対して何くそと思うのではい。
己に負けるのが最も許せない、負けず嫌いだ。
恐らく当麻の性格や性質を理解している筈で、だからこそ冷静に考えているのにそれでも勝てない己が許せないのだろう。
考えが足らないと思っているのかもしれない。
これが秀や遼だったならば相手が並みの天才でない事や、言葉の上だけでなく彼が軍師だからだと理解しているため勝てなくて当然、
勝てたらそれは運が良かったというものだと気にもしなかっただろう。
だが征士は違ったらしい。
昨日から何の気なしに聞こえていた参ったという声は殆ど征士のもので、当麻のしまったという声など1度か2度聞いた程度だ。
全く歯が立たないというワケではないのが、余計に彼を駆り立てているのかも知れない。


それにもう1つ、大事な事がある。


征士は、B型だ。

きっちりした性格から彼をよく知らない人間はA型だろうと言うが、違う、B型だ。
凝り性で、一度ハマると飽きるまでそこから離れようとしない、B型だ。
恐ろしくマイペースで、時には事の判断が他のソレと大きくかけ離れる、奇天烈な気のある、B型だ。
しかも彼の場合、それがどうも顕著だったようで…


「伸からも何か言ってくれよ!征士、しつこいんだ!」

「大きな声を出すな、当麻。気が散ると言っただろう」

「うるさいっ!伸、なぁ、ホント何か言ってくれって!コイツ、本当にしつこいんだよ!夕べも全然寝かしてくれないしさ!」


身体を捻って、征士に掴まれていない右の腕で伸の服に縋りつく当麻の表情は、明らかに疲れが滲んでいる。


「勝ち逃げは許さんぞ、当麻」

「勝ち逃げって…お前、全敗してるワケじゃねーだろうが!」

「私の中でせめて2連勝するまでと決めているのだ」

「お前のルールなんぞ知るか!俺はもうヤだ!もう寝る!!」

「夕べ寝ただろう」

「夜中の3時に寝て朝の6時に起こされたら、それは俺にとって寝てないも同然なんだよ!」


幾ら暴れても征士の腕が離れない事は解っているのか、当麻は左腕を取り戻すことを諦めているようだ。
代わりに長兄の服を必死に掴んで訴えてくる。
その姿に、同情しないわけではない。
寧ろ仲間以外の人間の前では決して見せない、子供っぽいその表情は、姉しかおらず下に兄弟が欲しかった伸からすれば
可愛くて可愛くて、正直、言う事を聞いてやりたい気にならないでもない。
実際当麻の表情なんて本当に疲れているし、今朝食卓で見た時など目が死んでいた。
単に睡眠不足かと思い自業自得だと呆れていたが、事情は違っていたのだ、気持ちは当麻に傾いても仕方がない。

だけど。


「そ。じゃ飲み物のオカワリここに持ってきてあげるから」


伸は”優しい”笑顔を浮かべて、当麻の右手をぴしゃりと払い、そう言い放った。


「え、ちょ…伸…っ!」


助けてくれると思った相手にアッサリと見捨てられ、当麻が焦る。
ただの理不尽で不毛な言い争いなら兎も角、夜更かしに付き合わされている現状ならば、公平な長兄は味方してくれると思っていたのだろう。
いや、いつもの伸ならそうだ。
多少言い回しに差があるとしても、単なる善悪だけでなくちゃんと全体を見て悪いものは悪いとハッキリとしてくれるのが、優しい優しい水滸様なのだ。


「何で、ちょ、征士が、だって…!」


思わず腰を浮かせた当麻をすかさず征士の腕が引っ張り、彼は再び座布団の上に落とされる。
ちらりと目をやれば当麻の腕に征士の手が少しばかり食い込んで見える。
肉の薄い当麻に対し、握力のある征士だ。
若しかしたら相当な圧が掛かっているのかも知れない。当麻の顔が顰められたから、きっとそうだろう。
文句を言おうとした当麻だが、言うより先に征士に、煩い、と一蹴されてしまいまた伸を見る。


「そりゃあ、征士の夜更かしって言うのも困るけどね。ものには限度ってモノがあるわけだし」


だったら、何故。
そう言いたげな当麻の鼻先に、伸が腰を曲げて指を突きつける。


「キミ、普段から没頭しすぎて周りに迷惑かけてるんだから、こういう時くらい相手に付き合ってやることだね」


長いスパンで見た公平性。
少しはこうして”お互い様”を学べと言いたいらしいお兄様は、せめて当麻のカルピスを濃い目に作ってやろうという優しさだけを残して、
その場を去った。
残されたのは疲れを顔だけでなく全身から漂わせ言葉を発することさえ出来なくなった当麻と、未だ次の手を考え、
朝から同じ姿勢のまま一切乱れていない征士の2人だけだった。




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征士はこういう面で子供っぽい気がしなくもないです。