おはし



「ストップ」


相変わらず賑やかな食卓の風景を止めたのは、伸の声だった。
遼は味噌汁に手を伸ばしている途中だし、征士は魚の骨を綺麗に取っている最中で、
当麻はトマトを一口で頬張ったために左の頬を膨らませ、秀はちょうど魚を口に入れようとした瞬間だったせいか大口を開けている。
ナスティなんてドレッシングを取りに行って戻ってきたばかりだったから、椅子に座りかけたままの中腰だった。
みな、綺麗に言われたままのポーズで止まっている。


「何も今のその瞬間で止まらなくていいんだけど…」


まさかそんな律儀に止まられると思わなかった伸が呆れて言う。
ちょうどそのタイミングで、大口を開けていた秀が涎を垂らしてしまった。


「で、どうしたの?伸、急にストップなんて言って」


椅子に腰掛けてナスティが問う。
伸の視線は、遼と、その隣に座っている当麻の手元だ。


「箸を持つ手がオカシすぎる!」


言われて皆の視線がそれぞれの手元へ移った。

遼は何と言うか、内側に入り込みすぎていると言うか力強く握りすぎていると言うか、窮屈そうに箸を握っていて、
当麻は当麻で妙な具合に、器用な事に、指先だけで持っている。
なるほど、確かにおかしい。

しかし今まで指摘されなかった部分を改めて言われても、当の2人は何が何だか解っていない顔をしている。


「ずーっと違和感があったんだよね、でも気付かなくってさ。今見たら、キミらお箸、変だよ。食べにくくないの?」

「そんな事言われたって今までコレで食ってきたし」

「改めて言われることってなかったから…」


そんな今更、と当麻は兎も角として、遼まで何か言いたげに反論をする。
少し珍しい光景だ。


「あのね、普通は…」


そこまで言いかけて伸が黙った。
それに最初は不思議に思った他の面々だが、すぐに彼が言葉を止めた理由に思い当たる。

遼の母は幼い頃に病死し、カメラマンの父は殆ど家に帰って来ない。
当麻の両親は元気なものだが、離婚するより前からロクに家におらず、結局いないも同然だ。
つまり遼も当麻も、幼い頃から殆ど一人で暮らしてきていた。
そんな彼らに親に教えてもらうだろうという言葉は通用しない。
どころか寧ろ、それは残酷な響きだ。
譬え当人らがどうとも思っていなくとも、そんな言葉を無神経に吐き出すことなど伸にはできなかった。

替わりに吐き出された伸の溜息は自分への戒めか、それとも彼らへの諦めか。


「…普通はこう使うの。ホラ、やってごらんよ」


そう言って自分の手元を示す。
最初は顔を見合わせて迷っていた遼と当麻も、それを見よう見まねで倣った。

しかし。


「………指が…つりそ…」

「何かバランスが…いたた、俺、人差し指が…!」


そんな状態で10年以上過ごしてきた手にはそう簡単に馴染まず、悪戦苦闘をしている。
それを見かねた伸が席の近い遼の手を取り、こうだよ、と子供にするように教えなおす。

「あ、うん…わかってるんだけど……」

「ほら、それでお魚食べてごらん」

「…………あ」


折角伸に教えてもらってもやはり巧く行かず、魚の身は皿から持ち上がってすぐに落下した。
遼が明らかに落胆するのがわかる。
彼は落ち込むと結構長い。
気遣った当麻が、大丈夫か、と声をかけようとしたが、それは征士の手に寄って阻まれた。


「…なに?」

「お前も見てばかりいるんじゃない。ほら、こうだ」


遼と逆隣に座っていた征士が、伸と同じように当麻の手を握りこんで教える。


「痛い」

「正しい持ち方をしてこなかった為に手が未だ慣れてないのだ。我慢しろ」

「そーじゃねえよ、お前、握力強すぎんだよ。俺の手、粉砕する気かっ」


幼少期から剣道を嗜んできた征士の握力が高校生男子の平均を遥かに上回っていると知ったのは、つい先日のスポーツテストでの事だ。
勿論、そんなに力を込めて当麻の手を握っているわけではないが、慣れない痛みに彼は顔を歪めた。


「…すまない。……ほら、こう…どうだ?」


遼とはまた別の意味で素直な当麻は、えー面倒臭えー、と顔に出す。
その頭を軽く叩いて征士が促すと、漸く、渋々ではあるがそれで遼と同じように魚の身を持ち上げた。

ぽとり。

遼よりは長く持ち上がったが、途中で箸が交差してしまって、やはり身は落ちた。


「…無理」

「無理ではない」

「そーだぜ、当麻。千里の道も一歩からってゆーじゃん」


他人事の秀はヘラヘラ笑いながら料理を平らげている。
そうこうしている間にも料理は冷めていっているので、ナスティとしては気が気ではない。
やはり料理は温かいうちに食べて欲しい。
折角みなで暮らしているのだ。
レンジで温めた物ではなく出来立てを、みんな揃って食べたい。


「ねぇ、取敢えずご飯を先に終わらせましょう。確か大豆があったはずだから、後でそれで練習したらいいわ」


ナスティは皿に入れた大豆を別の皿に移しての練習法を提案した。
洋風の顔立ちなのに彼女は時々、おばあちゃんの知恵袋のような事を言う。
それに納得したのか、彼らへの教育は一旦中断した。


そして夕食後、約束通りそれは再開される。
先ほどと同じく遼の隣には伸が、当麻の隣には征士が付き彼らの箸使いを直していく。

のだが。


「……うぅ…」


さっきまでも、うー、だの、あー、だの呻いてはいたが、それとは明らかに違う種類の呻き声を遼が漏らした。

ヤバイ。

それを向かいで見守っていた秀が先に気付いた。
横にいた伸が続いてソレに気付き、隣の異変に征士と当麻も遼の横顔を見る。
遼の勝気なツリ目にはどんどんと涙が溜まっていった。
そして、それがポロリ、と零れて。


「りょ、遼、ごめん、僕ちょっと言いすぎた…!?」


伸が慌てて聞くと遼は首を横に振る。
どうも手が痛いわけでもないようだ。


「俺、…折角教えてもらってんのに…巧く出来な、くて…」


夕食後の団欒の時間を使ってまで教えてくれているのに、出来ない自分が情けなくて彼は涙を流していた。
気付いたナスティが慌ててティッシュを箱ごと差し出す。


「あり、がと……でも、本当、俺、ゴメン、伸…!」


もうこうなっては手が付けられない。
それに伸も優しい性格をしていたものだから、弟分に泣かれてはもうこれ以上彼を追い詰められるわけもなく。


「解った、遼。また今度にしよう?ね?徐々に慣れていけばいいんだからさ。ホラ、ね?おしまい」


彼の頭を撫でて箸をその手から優しく奪うと、大豆を片手に立ち上がった。
まだ涙の止まらない遼は、秀が引き継いで慰めている。

それを隣で見ていた当麻が、遼に向けていた首を反対側に居る征士の方へと向けた。


「何だ」

「…………うえーん、俺も悔しいよー」

「何を言うか馬鹿者。大体お前、涙さえ浮かんでおらんくせに」

「俺の涙腺は強いんだよ」

「無駄口を叩く暇があったらさっさと続けろ」


同じ手を使ってみても、相手が征士では全く通用しない。
だがこの場合やる人間にも問題はある。
似たような環境で育ってきた遼と当麻だが、根本的な性格が違いすぎるため、秀もそっちには慰めの言葉をかけてやらない。
純粋な遼と違って当麻は図太く逞しい。

箸の練習は、結局ナスティが止めるまで続けられた。
終わったのは夜の10時だった。



その練習はそれから毎日10分ほどだけ続けられた。
10分と言う区切りは、秀が提案したものだった。
あまり時間をかけると遼がまた己を責めてしまうし、加減を知らない征士はいつまでも終わらせない。
翌日、右腕がダルイと当麻がブツブツ文句を言っていたのには、流石に同情したらしい。


練習のお陰で2人の箸使いも随分とマシになってきた。
今でも油断をするとつい元に戻ってしまうが、それでも綺麗に箸を握り、魚の身を解すのも上達してきた。
箸で摘まんだプチトマトを口に入れる前にテーブルに落とすという事も無くなってきている。

しかしその練習は、ある日突然打ち切られた。
それも言いだしっぺの伸によって。


「何でだよ、もうちょっとやったら馴染みそうなのに」

「そうだよ、俺、結構ハマってきたのにさ」


何事にも全力で打ち込む遼と凝り性の当麻は、大豆を運ぶだけのこの練習にすっかりハマっていた。
だが中止を言い出した伸は言葉を撤回しない。


「しーん、そんなんじゃさー、コイツらも可哀想じゃんかさー」


最近では豆渡しの成否に一喜一憂していた秀も食い下がるが、やはり伸は決定を覆す気がないようだ。
それを見ていた征士も、彼の突然の言葉に納得がいかず口を挟む。


「伸、理由を説明してくれ。私も納得が出来ん」


冷静に言ったその征士の言葉に、伸が突然彼を睨み付けた。
そして徐にその美形の人物の胸を指差して、怒鳴る。


「原因はキミだよ!!!!!」





最初はぶーぶー文句を言ったり面倒臭そうにしたり何度も挫折しかけた2人(前半は主に当麻だけ)だが、
最近は箸使いも巧くなってきてすっかり楽しくやっていたのを微笑ましく見守っていた伸の耳に、
クラスメイトの言葉が飛び込んだのは今日の放課後のことだ。

部活の後輩から聞いたというその話題が、征士と当麻のことだったので思わず伸は耳に意識を集中してしまった。

何でも先日の書道の授業で征士が当麻の筆遣いに口を出したらしい。
口を出すだけなら未だ良かったが、当麻の背後に回りその手に己の手を重ね、
本当に、言葉どおり、手取り足取り、それを正していたという。


きっと箸使いの件以降、彼なりに色々と気になっていたのかもしれない。
何せ征士はそういった事にはトコトン厳しい家庭で育っている。

言われて思い返せばリビングで遼と秀、偶に純の勉強を見ている当麻のペンの持ち方は少し変わっていた。
同じクラスで、しかも席も前と後ろとなると嫌でもそれが目に入るのだろう。
そして箸同様に修正してやりたかったのだろうとは思う。
正しい持ち方というのは綺麗な文字を書くのにも適切だという事は勿論、それは姿勢にも関係してくる。
姿勢が悪くなると頭痛や肩こりの原因にもなるし、しかも当麻は偶に頭痛を訴えていた。
それを征士は気にしていたのかもしれない。
しかしだからと言って。



「うちでやってるのと同じ事を外でやるなって何回言ったら解るんだよ、このバカっ!!!」


そう怒られても、征士には原因と言われる事に何も思い当たる節がなく、心底不思議そうに首を傾げるばかりだ。
代わりに何となく理由を察した秀は呆れたように乾いた笑いを漏らし、遼と当麻はずっと練習の再開を訴えていた。




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ペンの持ち方は、当麻のほかに遼と秀もオカシイと思います。