G騒動



それは招かざる客だった。
不穏な気配を漂わせながら死角を移動し、そして如何に扉や窓を閉めようとも僅かにでも隙間があればいつの間にか侵入している、それ。
その姿を見た者の大半に絹を裂いたような悲鳴を上げさせる、それ。

そう、Gのイニシャルを持つ…。





「ぎゃああああああああああああああああああ………!!!!!」




ある日の夜のことだった。
夕食を終えた柳生邸の面々が、程良くまったりとした時間をそれぞれに過ごしていた時だ。

ナスティと伸はその日に使った食器類をキッチンで洗っていた。
遼はラグの上に座り、そして秀と当麻は二人並んで大き目のソファに並び、そして少しの間を空けて征士もそこに座っていた。
付けっぱなしのテレビではバラエティ番組がやっており、それを見て4人が笑っていた、そんな穏やかな時にそれは突然訪れた。

素早く動くソレを最初に見つけたのは秀と当麻の2人、同時だった。
そして屋敷に2人の悲鳴が響き渡る。

悲鳴に驚いた遼と征士が、顔を真っ青にして互いの身体を抱き締めあう秀と当麻の視線を辿った先は、白い壁だ。
何事かとナスティと伸もキッチンから出てきて、彼らに倣う。
そこにある、黒く、不気味なツヤを湛える、それは。



「………何だ、ゴキブリじゃないか」


事も無げに言ったのは大将である遼だ。


「なんだ、驚かさないでよ」


伸も平然と言う。


「ナスティ、新聞か何かないか」


征士なんて眉一つ動かさない。


「今朝、廃品回収だったから今日の夕刊しかないわ。もう皆、読んだわよね?…あら、どこに置いたかしらね」


意外な事にナスティも全く驚いた様子がなかった。
対して秀と当麻はまだ身体を離そうとせず、少しでもヤツが動こうものなら、ヒッ!だのギャ!だのと短い悲鳴を上げている。


「ななな、何でオメーら平気なんだよ!」

「ご、ゴキブリだぞ!?」


頬までくっつけている2人は他の仲間の顔を見渡した。
その間もなるべくヤツは視界に入れて警戒をしているようだ。


「何でって…」


誰とも無く、寧ろそこまで怯える2人に、何故、と問いたげに不思議そうな声を出した。
こう言っては何だが誰もが、意外と思ったのだ。

秀は料理屋の息子で、その”G”を見ない生活とは流石に思えない。
ソレが調理場は勿論、客の居る店内に現れては事に違いなく、だからこそソレに対してもっと強気に退治に出るだろうと思われた。
それに彼の性格上、こういった物への拒絶反応があるなどと誰も考え付かない。

当麻だってそうだ。
最初にするモノの判断の大半が好奇心に委ねられていると言っても過言でもない性格の持ち主である。
何に対しても博識さを見せる彼に、未知や生命への恐怖という感情などあるとも思えなかった。

つまり最も平然と対処しそうな2人が、今こうして怯えている。


「…………僕はキミらの反応の方が意外だよ」


伸のこの言葉は皆の代弁でもあった。


「お、俺らの反応がフツーだろーがよっ!何でそんなヘーキなんだよ!!?」


ナスティは新聞を捜しに行ったままだ。
一応征士もヤツの動きは目で追っているようだが、流石に素手で対処する気はないらしい。
恐怖のど真ん中に置かれている2人はさっさと退治して欲しいが、流石にそれを目の前で素手でやられるのは勘弁して欲しそうな顔をしている。


「何か2人は平気そうなのにな」

「どういう意味だよ!遼!」

「あぁ、二人とも都市部に住んでいるからな」


一瞬だけ遼に視線をやった当麻だが、すぐにヤツへ視線を戻してまた短く悲鳴を上げる。
遼の代わりに征士がいつもの落ち着き払った声で答えると、今度はそちらへ視線をやり、また悲鳴。
悲鳴を上げるくらいなら見なければいいのに、と伸は思ったが言っても無駄だろう事が解ったので黙った。
きっと此処から避難するよう言っても今の彼らは足も竦んで、それさえ適わないだろう。


「ととと、都市部つっても、仙台だって都市部だろーがよ!」

「そーだよ!てか、っわ!ううう、動いた!!!わー、飛ぶ飛ぶ飛ぶ…っ!!!」

「あの高さじゃ飛ばないよ。もっと壁の上のほうまで行かなきゃ」


そもそもヤツのは飛ぶというより滑空だ。
壁の低い位置からではそう距離も出ず、飛ぶことなど無いと伸は告げた。


「当麻ならそれくらい知ってそうなのにな」

「知ってるよ!でも知ってるのと、判断できるのは、また、別…って、わー!壁、上に行ってる行ってるって!アホちゃうか!」

「あー!!飛ぶ、飛ぶ、え、こっち、来る!?っひぇー!!!」

「アホはお前達だ、煩い。もう少し落ち着けんのか」

「無茶ゆーなって!あんなん、怖いに決まってんだろーが!!」


仲睦まじく身を寄せ合う義の男と軍師は、ギャーギャー言いながらもやはり視線はソコから動かさない。
叫びながらも新聞早く!と必死に願っていた。


「ナスティー、新聞見つかったー?この子達が怯えて煩いんだよ」


隣の部屋にまで探しに行っているらしいナスティに伸が声をかける。
その姿は本当に日常の延長のようで、言うなればまるでコーヒーに入れる砂糖は何処かと問うてるような雰囲気だ。

それに先ほどから怯えっぱなしの秀が異論を唱える。


「だから何でそんなヘーキなんだよ!」

「あのねぇ……秀、キミ、料理屋さんならゴキブリくらい見たことあるだろう?」

「あるよ!あるからこそ嫌なんじゃねーか!1匹見たら30匹はいると思えって教わらなかったのかよ!!?」

「ああ、言うよな、それ」

「平然と言わないでくれよ、遼!」

「山でも結構見るんだけど……大阪には居ない?」

「居るよ!家はマンションだから部屋では見ネェけど、それでもたまにゴミ置き場とかで見るよ!!」

「お前なら寧ろ生物という事で生態を調べていそうだと思ったのだが…」

「生態を知ってるからこその恐怖だよ!!!!いいか、アイツらはなぁ、傷ついた仲間が巣に帰ろうモンなら」

「当麻、ストップ。それ以上言ったら此処でゴキブリに対抗できる人がいなくなる可能性があるよ?」


当麻の持っている知識は広い。
軽くパニック状態に陥っている今なら、きっと聞いても無くても詳しく、それはそれはリアルに様々な角度から
ヤツの恐怖を語ってくれるに違いない。
そんな事をされては流石に堪らないと思った伸が止めに入る。
一応表向きは優しい声だが、言っている伸の目が真剣だったので当麻は黙って悲鳴を上げるだけの行動に戻った。

パニックでもそういう判断が出来るのは素晴しい。
いや、こういう状況でも伸を怒らせるのが得策でないという事が身に沁みていると思うべきか。


言い合いをしている間にもヤツは更に壁を登っていく。
それにまた2人分の悲鳴が上がった。
ヤツは平気だが、こうも悲鳴ばかり聞かされては誰もがうんざりしてきた頃だ。


「新聞、あったわよー。でも夕刊だから薄いのよね。コレで大丈夫かしら?」


と、ナスティが相変わらずの上品な笑みを浮かべてリビングに戻ってきた。
それを女神の登場と言わんばかりの目で秀と当麻が見る。
しかし幾ら平気そうだと言っても彼女にそんな仕事をさせるわけにもいかない。
彼女も自分が退治する気は無かったらしい。
最初に新聞の所在を尋ねた征士に、まるで当然のように新聞を渡している。
そして征士もそれを当然のように受け取った。

その時だ。

ヤツが壁をある程度登ったあたりでモソモソと妙な動きを見せる。


「くるくるくるくる!!!!!」


それを目聡く見つけた秀が大きな声で騒ぎ始める。
それを聞いた当麻はもう声さえ出せない様子で、それでも秀に抱きつく腕に更に力を込める。

このままでは角度的に彼らの方に飛び込んでくる確率が高い、ソレ。

今、まさに滑空を開始しようとする、ソレ。


「っぎいいいやああああああああああ!!!!」


秀が叫びながら、彼も当麻の背に回した腕に力を込めた。
2人して硬く目を閉じているが、それを見ている伸の目は冷めているし、遼は意外な光景にもうヤツではなく彼らばかり興味津々に見ている。
ナスティも何だか珍しい姿を見せる2人をアラアラ仕方ないわね、と言わんばかりに微笑ましく眺めていた。
そして征士は。

新聞を綺麗に丸め、悲鳴を上げる2人の前に男らしく立ちはだかると、タイミングを見計らって。



スパンっ!


フルスイングされた新聞は綺麗な音を立て、ヤツを地面に叩き落す。
そしてヤツが体勢を立て直す前に今度はその新聞をまるで光輪剣のように綺麗に振り下ろし、その生命を奪った。

そして最後は、ナスティが持って来てくれたキッチンペーパーで、2人から見えないようにソレを包んでゴミ箱へ放り込んだのだった。





「っもー、駄目だ…超こえー………え、今日誰か一緒に風呂入ってくれよー…」


1匹見たら30匹はいると思え。
それを子供の頃から聞かされ続けた秀が、ソファにぐったりと身を預け嘆く。
その隣で当麻も同じように四肢を投げ出し茫洋としたまま、こくこくと頷いて同意を示した。


「当麻と入れば?」

「2人で入っても、どっちも怖いんじゃしょうがなんじゃないかしら?」

「そうだよねぇ……さて、どうしようか。流石に3人以上で入るのはちょっと狭いだろうから…」

「俺、もう入っちゃったからパスね」


遼は夕方頃に、白炎を洗うついでに入浴を済ませていた。
後に残っているのは伸と征士だ。


「仕方が無い。当麻は私が一緒に入ろう」

「っもー、しょうがないなぁ……じゃあ秀、僕と一緒でいいかい?」


藁に縋る溺れる人よろしく、秀と当麻は何度も首を縦に振ってそれに答えた。






先に征士と当麻が風呂に入っている間、伸は何となく嫌な予感がした。
それは先日、学食の横でヤツを見かけた事があったからだ。
そしてその学食、大食漢でもある件の2人はよく利用をしている。


…………学校で騒がなきゃいいけれど…



しかしこの伸の予感は、当たる。
それも、最も人がごった返している時間帯に、それも当麻が征士といるというあまり歓迎できない状況で。
それはそれは大きな悲鳴を上げながら征士に抱きつく当麻を遠巻きに見た時、伸は言葉どおり頭を抱えるのだった。




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”G”嫌いな人には申し訳ないのです。私も大嫌いです。
抱きついてきた当麻を、きっと征士はさり気なく背後に庇ってやるんですよ。
女子、キャーキャー言います。伸ちゃんは頭が痛いです。